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夢と鏡

会議の合間にその部屋…講義室だか会議室だかわからないその部屋を抜け出し、わたしは化粧室の鏡を見ていた。
その会議では、わたしが先送りしまた先送りし、を繰り返してきた当該の課題について慎重に議論がなされていた。そこからこっそり抜け出して、わたしは化粧室の大鏡に映し出された自分の顔を見ていたのだ。すると黒い帽子の下からくるくるっと丸まった長い癖毛がはみ出しているのに気づいた。
夢の中のわたしはなんとなくその不自然な癖毛に見入った。そこで目が覚めた。

 あの変な癖毛はなんだろう?夢の中の続きのようにその日一日夢の中の癖毛のことを考えていた。夢の中に偶然はない。偶然自分にへんな癖毛が生えていることに気づく、などということが夢ではあり得ない。覚醒時の現実生活において何らかの理解や概念やあるいは他の心の動きがあって、それがあの癖毛の形象に類比的に変換されたのである、そのように考えないといけない。しかし、何だって癖毛なのか。この夢は仕事上の心配事が原基になっているということはすぐにわかる。しかし、それだけならあのような癖毛を登場させる必要がどこにあるのか。


 たいていの夢がそうであるように当初は何の連想も湧かない。そして何も思い浮かばない。もしかして大した意味はないのかも知れない。時間ももったいないし、やるべきことは無限にある。いつまでも不可解な癖毛に拘わり続けているわけにもいかない。後味はよくないが今回はここで切り上げてしまおうか。こんなところで切り上げて、ちゃんとこの夢が成仏してくれるかどうかわからないが。しかし…と考えを巡らせているうちに、ある時ふと息子の顔が思い浮かんだのだ。


 あれは息子の前髪とそっくりだ 、と思う。親に似ない癖毛である。いや、母親はやはり小さい頃癖毛だったらしい。母親に似たのか。湿気がひどい時は爆発したように盛り上がる天然パーマ。短髪にしてしまえはいいと思うのだが、前髪は目まで隠れそうなほど長く、今時の若者風ではある。そしてくるっと丸まっているのだった。見間違えようがないほどあの夢の中の癖毛とそっくりではないか。


 夢はわたしと息子を区別していないのだ、ということがここでわかる。この夢の中ではわたしはどういうわけか息子であり、息子はどうしたわけかわたしであった。さらに、この圧縮作用は、会議が行われていた部屋の様子にも反映している、ということに思い至る。あれはどこかの大学の講義室のようでもあり、またよくある殺風景な企業や役所の会議室でもあるように見えた。ここでは二つの〈場所〉が同期しているのである。大学の講義室は大学生の息子から連想されたものに違いないだろうし、会議室はわたしのことが投影されたものだ。大学生の息子と会社員の自分が、それぞれの場所に置換されており、その二つの場所が渾然一体となって講義室だか会議室だかよくわからない、という印象の部屋が夢の中で出来上がっているのだ。その部屋は圧縮されて一つになった息子とわたしの、もう一つの象徴像なのだ…

 では、何がわたしと息子を吸着し圧縮し、おかしな癖毛が生えた自分の像を造り上げたのか。どのような心理作用が、あるいは精神活動がわたしと息子を同期させたのか。


 それは子どもの頃から変わらない息子の心理・行動パターンを思い返せばよくわかる。こだわりが強く、片付けが一切できず、わすれものばかりして、やるべきこととやりたいことの優先順位がわからない、集団嫌いでラノベマニアのアニメオタク…どこにでもいそうな男の子のように思えないこともないが、発達障害グレーゾーンとも言われ、息子は小さい子どもの頃から宿題ができなかった。ゲームが終わったら本気出す、と言いつつ、本気を出す機会が延々と先延ばしされていくのだった。先送りし先送りし、また先送りし、そして母親に怒られながら眠る前の僅かな時間にようやく宿題にとりかかるのだった。しかし、もう眠いから朝やるという。朝になると当然早く起きられないので結局、学校でやる、ということになるのだった。たぶん大学生になった今でもこのパターンは変わっていないに違いない。課題が!レポートが!などと泣き言を言っているのをたまに聞く。


 一方現下、わたしは仕事上の課題を先送りし先送りして、あとで泣きを見るのがわかっていながら時間のばしをしている、という状況がある。あまり猶予はないのだが、今少し時間があるのをいいことに先延ばし戦略にでている、というわけだ。


 この現下の状況が夢の原基となり、その原基のエッセンスである一つの心理・行動パターン(先送りを繰り返して後で泣きを見る)が結節(※)構造となって、息子の記憶を吸着同期し、二人を圧縮した人物像が造形されたのである、とこの夢をさしあたり解釈できるだろう。


 要は、人の親なら誰もが幾度も想起するであろう「子は親の鏡」なることわざの概念が、具象的な形象の継起展開とし表現された、と言えそうである。わたし自身の子どもの頃を振り返れば思い当たる節だらけであり、先送り病は今の息子どころではなかった、と思い至る。いやむしろ息子の方がまだましなのではないか。


 息子はだだ親の背中を見てその心理・行動パターンを自らの無意識に転写し、シナリオ化しているのだろう。そのシナリオ通りに息子は人生を演じている、ということだ。いずれは、そういう要らぬシナリオに自覚的になり、自力で書き直してほしいものだが。


 ユニークなのは、夢のエッセンスである二人に共通する心理・行動パターンの結節構造がちょうど鏡の形象となって象徴化され、わたしが夢の中に自分とも息子ともつかない人物をその鏡の中に見出している、ということである。「子は親の鏡」ということわざの概念が結節構造に引き寄せられ、ちょうどそのことわざにある鏡の形象が臨時で採用されたものに違いない。


 さてこの夢はごくごく日常的で、子の親なら誰でもがその頭に去来させるような、ささいなもの思いが種になって夢の中で芽を出したものというにすぎない。しかし、このようなただの日常夢であるとしても、この夢は、いくつかとても重要で普遍的な法則性に気づかせてくれる。


 そのひとつは夢における〈場所〉の象徴性についてである。〈場所〉は夢にとって人物にも劣らないほど重要である。夢の中の〈場所〉は、実に多くのことを語る。見覚えがある交差点や雑居ビルなどが夢の舞台の一部として登場したら、その〈場所〉に付着した気分や印象、感情や思考を思い返してみるとよいだろう。すると夢が語っているのは実はその気分や印象、感情や思考であることがわかる。それらを概念的に語ることができないので、夢は〈場所〉の形象で代替させているのである。


 夢の構造にとっては、自らを類比的に反復することが至上の命題である。そのためなら、どのような形象でも選択し充当する。自らの構造反復のためなら、人など登場させず、夢見者の記憶にある〈場所〉だけでその構造を類比的に反復することも厭わない。


 今回の夢の舞台となった部屋の印象を、わたしは、講義室だか会議室だかわからない、と書いた。それは、この夢の解を理解する以前から抱いていた印象をそのまま言葉にしたのである。鏡の中の癖毛から、自分と息子の圧縮、という夢の解に思い至った時、その場所がなぜ「講義室だが会議室だかわからない」という印象を最初に与えたのか、それが偶然ではなく、必然であり、夢の意図に沿ったものであるということを明確に理解したのである。
  詳しく分析すると以下のようになる。講義室=息子、会議室=わたし、という二つの等式があり、最初の場面ではこの等式のそれぞれの左辺が圧縮されて「講義室だが会議室だかわからない」印象の部屋が造形され、大鏡の場面ではそれぞれ右側の辺である息子とわたしの像が圧縮され、自分だが息子だかわからないような自分が造形されている、というわけである。夢の構造にとっては、部屋の造形も人物の造形も等価であり、どちらも類同性をなしている。


もしも、後の大鏡の場面を割愛してみた場合、この夢は次のようになる。

会議の合間にその部屋…講義室だか会議室だかわからないその部屋をわたしは抜け出した。その会議では、わたしが先送りしまた先送りし、を繰り返してきた当該の課題について慎重に議論がなされていた。

 もしもこの場面だけであったとしても、入念に連想を辿り、この場面に裏張りされた心理、行動パターンに思い至るならば、それが息子の心理・行動パターンに構造連想され、「講義室だが会議室だかわからない」部屋が舞台となったのが必然的なことだったのだとわたしは気づいたであろう。講義室というイメージに、大学生になったばかりの息子からの連想が働いている、ということに思い至りさえすれば、である。


 ここでは夢における〈場所〉の役回りが遺憾なく発揮されている。夢の構造にとっては自らの類比的反復こそが至上の命題である。ここでは、その至上の命題のために人物と同じ比重で〈場所〉が造形されているのである。


 レヴィ=ストロースが『野生の思考』で未開民族の神話的思考について述べたことと同じことがここでも言える。すなわち夢は「どんな木でも矢にする」のである。〈場所〉であろうと人物であろうと夢の構造にとっては、どちらも同等な矢の材なのである。

 さてもう一つ、このありふれた日常夢に見出せる重要性について考えてみたいのだが、それは象徴の固有性ということについてである。あの長く丸まった癖毛は、世にある夢事典やシンボル事典でいくら調べても出てこない。あの癖毛はわたしの息子のことを指示しており、わたしに固有の象徴的表現である。わたしの生活世界に位置付けられた時初めて意味を帯びる、そのような象徴的表現である。誰にとっても同様な意味がある、というような一般性は持っていない。言ってみればわたしにだけ理解できる言語である。だからシンボル事典をみても夢占いのサイトを見ても何もわからない。わたしがわたしの生活世界を内省的に想起し、連想を働かせたり、類似した対象を探したりしなければ決してその象徴的意味に気づくことはできない。シンボル事典ではなくわたしの生活世界の中にしか答えはない。わたしがわたしの生活世界に内省的な眼差しを向けなければ、この癖毛の象徴的意味は誰にも知られることなくただ忘却の底に沈んでいくばかかりであったはずだ。


 このような夢の象徴の固有性について、エーリッヒ・フロムは『夢の精神分析』のなかで偶然的象徴と名付けて次のように説明している。


 かりに誰かがある都会で悲しみの種になるようなことを経験したとする。その都会の名をきくと、彼はたやすくその名前を悲しい気分と結びつけてしまうだろう。ちょうどその経験が幸福なものだったら、その名を喜びの気分と結びつけるように。その都会の性質の中にはなんら悲しいものも喜ばしいものもないということはまったく明らかだ。その都会を気分の象徴にしてしまうのは、その都会に関連した個人的経験にほかならないのである。
 これと同じような反応は、かつて特別な気分と結びついたことのある家や街や一定の着物や景色、その他どんなものに関しても起こり得る。ある都会にいる夢をふと見ていたとする。事実、夢の中では、その都会と結びついた特別の気分が何もないかもしれない。見ているのはただ一つの通りか、単にその都会の名前だけてある場合さえある。われわれは、なぜ夢の中でその都会のことを考えたのか、考えてみると、実はその都会が象徴する気分によく似た気分の時に、自分が眠りにおちたのだということを発見することがある。夢の中の絵はこの気分を表現しているのであり、その都会は、そこでかつて経験されたその気分を「代理している」のである。この場合、象徴と象徴されている経験との関係は、完全に偶然的である。
 慣例的な象徴と違って、偶然的な象徴は、われわれがその象徴に関連する出来事を話さない限り、他人には誰にもわからないものである。このために、偶然的な象徴は、神話やお伽話や象徴言語で書かれた芸術作品にはほとんど使われない。なぜなら、作者が自分の使っている象徴を一つ一つ長く説明しないと、意味が通じないからである。
『夢の精神分析』外林大作訳

 先に述べた夢における〈場所〉の重要性ということにも関わるのだが、たいていの夢では、このように〈場所〉にしろ人物にしろ、夢見者の生活世界に脈打つ文脈の中に位置付けられているものの、その文脈を欠いた形で夢に現れるので我々はそれを〈象徴〉とみなしているのである。内省的思考と連想によって自分の生活世界の固有な文脈に位置付けられた時、夢の象徴性が非常に個人的、偶然的で〈わたし〉固有のものであり、往々にして一般性を持たないということに気づく。


 夢の形象は固有な〈わたし〉を映し出す鏡なのである。


※吉本隆明著『心的現象論序説』「Ⅵ心的現象としての夢」から

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