祝祭夢

その夢の中でぼくは若返っていて、二十歳くらいの学生になっている。学園祭の最中で、ぼくと仲間たちは大きな会場の舞台で何か出し物をやっている。客席でメンバーとわかる帽子かタスキを身につけて、舞台上から指名される、というのがぼくの役回りだった。とても大きなホールだ。客席は大方埋まっている。薄暗い照明。

また学園祭では定期試験もいっしょに行われている。ドイツ語の試験を個別に受けるのだが、そのドイツ人の女性講師はとても若くて美人だ。

その夢の空間は祝祭の雰囲気で満ち満ちている。

そのあとぼくは、稲の切り株が残り藁屑が散らばる冬の田んぼを無理矢理自転車で突っ切って家路につく。途中、よく見知った場所…この世で最もつまらないと感じられるような何もない場所で、三人の鳶職らしい若者たちとかち合い、並走することになる。ぼくは漕ぐ足の動きをわざと遅くして彼らと離れようとするのだが、どういうわけか、彼らは纏わりついてくる。足の動きを早めて先に行こうとしても彼らは、ピタリとぼくと並走している。

そのうち短い橋に差しかかった。川の水は台風の時のように溢れ、橋を呑み込みそうになっている。欄干がなく、ぼくは橋と溢れる川の水の境界がよくわからず、橋の隅からタイヤを踏み外してしまう。そして川の水に呑み込まれそうになる。が、あやうく自力で橋の上に舞い戻ることができた。三人の鳶職の若者は、橋の欄干がないと危ないから、と言って橋の両端にその辺にある土塊のようなものを積み上げる作業に取りかかった。確かにそれが欄干の代わりとなり、後の通行人が川に落ちることもなくなるだろう…ぼくもそれを手伝うことにする。若者たちとの間に、何か連帯感のような感覚が醸成されていることにぼくは気づく。

我が夢の分類表における「祝祭夢」に分類できる。生来の、あるいは日常生活における摩耗により冷却化した身体感覚、死んだ感情がいくばくかでも蘇り、生理的生命感覚が上昇局面にある時にみる典型的な夢である。
我が祝祭夢の典型的な要素は、賑やかな大勢の人たち、溢れる水、「橋」、そして建築や工事の場面といったイメージ群である。高揚した祝祭の雰囲気が夢全体を貫いて流れる。

今回の祝祭夢では、祭りそのものである学園祭、性的高揚の中に立ち現れた美人のドイツ語教師、非日常の興奮を象徴する台風の時のような溢れる川の水…等が上昇する生理的生命感覚によって喚起されている。そして「橋」は自己と他者の境界を超えることを可能にする祝祭の無意識的陶酔感を像化している。

ここでは「川」の水が二つの象徴的意味を含んでいることがわかる。一つは非日常的な興奮の感覚、もう一つは、自他の境界を無化する「橋」を呑み込もうとする盲目的な力あるいは試練として。

ここで立ち止まって深く考察すべきは、三人の鳶職の若者と彼らに出会った場所が夢によって選ばれた意味についてだ。

その場所は、祝祭の感覚からは最も程遠い郊外の、カスのような、と言ってもいい常日頃からよく見知ったところだ。陰影のうちに沈む死んだ風景。普段は冷たい廃墟のような感覚しか呼び起こさない。映えない緑と錆びた看板と雑草の中の資材置き場が氷雨に打たれているような、あるいは高速道路の騒音が民家も菜園も工場もノイズかかったモノクロームの写真に変えてしまったかのような町の一角。生来の、あるいは日常生活における摩耗により冷却化した身体感覚や死んだ感情が喚起したに違いない風景。

また三人の鳶職は、普段だったら自分とは相まみえるようなことはないだろうし、親しく付き合うこともなさそうな若者たちだった。そんな馴染めそうもない彼らと、死んだような廃墟に似た場所…この場面は、この夢の祝祭感覚が一旦途絶えた瞬間だ。

しかし、上昇局面にある生理的生命感覚は、その場面を、冬の田んぼを無理矢理突っ走る自転車のように突き抜けていく。

自他の境界を無化する「橋の上」での協働作業が、まさにその橋によって象徴される連帯の感覚を呼び覚ますのだ。無論連帯の感覚とは、自他の境界を超える祝祭の無意識的陶酔感覚が意識的な共感性へと転生・進化したものである。

この夢における像と場面の展開、組み合わせの絶妙さはどうだろう。まるで一つのテーマを見失わず、また、起承転結の約束事をも破らずに展開する物語のようである。夢を侮ってはならない。神話と同様、日常的な意識が及びもつかないような思慮深さを秘めている。

#夢分析

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