夢の隠喩としての夢

週末の会社で遅くまで残業している。本当に瑣末なことをして時間が過ぎる。そのうち社員の一人の机の引き出しが飛び出しているのに気づく。彼の机のなかや周辺を物色してやろうかという考えが頭をもたげる。いや、しかし、いつ誰が部屋に入ってくるかわからないのだから、それはダメだ、とも思う。たとえ周りに誰もいなくても、誰かがいるのと同じように振る舞え、とぼくは思う。壁に耳あり…ともいうではないか…そう思っていると驚いたことに上司に当たる人物が部屋に入ってきた。誰かがいるように振る舞え、と思っていたところに、本当に周りに誰かがいる状況になった。皆、帰ったはずだが、なぜ戻ってきたのか。彼は、こんなに遅くまで残業してはいけない、と言う。いえ、週末やっておかないと結局平日にしわ寄せがきてしまうので、仕方ないんです…そうぼくは説明する。

同僚の机の中を物色して何かを盗んでやろうか、という善からぬ願望が、実際に自分の中にあるのかどうか、ということがここで問題なのではないのである。そのような欲望はあってもいいしなくてもいい。

重要なのは、眠りにつく直前、フロイトの『精神分析入門(続)』にある次の一説に意識を集中していた、という事実である。

夢という無害な精神病は、意識的に欲せられた、ただ一時的な外界離反の所産なのであり、それは外界との関係が正常化するとともに消えてしまいます。眠っている人間が外界から孤立している間は、その人間の心的エネルギーの配分にも変化が生じます。普通ならば無意識的なものを抑止するために消費される抑圧エネルギーの一部が節約されることがあるのです。なぜならば、たとい無意識的なものがその条件付きの解放を利用して活動しようとしても、睡眠中は運動性への道は閉ざされており、幻覚的な満足に至る無害な道しか残されていないことがわかるからです。その時につまり夢というものが生まれてくるわけです。しかし夢の検閲という事実は、睡眠中にも抑圧抵抗がまだ充分にその機能を果たしていることを示しています。(高橋義孝、下坂幸三訳)

ここでは、自我が無意識的なものに占領されて外界から離反した精神病に、夢が類比されている。ぼくは、その類比がとても正確なものに思えて、外界離反という言葉に改めて価値を見出したのだった。

ここではまた、そのように外界の規範から解放された無意識的なものの表現である夢になお規範的なものが作用し、抑圧や抵抗がその機能を果たしている、と言っている。

夢の内容に立ち戻ると、この夢の中で
ぼくは、誰もいなくなった会社で一人残業している。いわば、誰の目も及ばない外界離反状態がここで再現されているのである。夢の中のこの孤独な状況は、「夢」のメタファーなのである。そんな「夢」のメタファーとしての夢の中で、ぼくは善からぬ考えに囚われそうになる。他人のデスクの中を物色してやろうか、と。しかし、一方で、誰も見ていなくても、誰かがいる時と同じように振る舞え、などと自分に言い聞かせていて、欲動とその抑止の間で葛藤している。つまり、フロイトの言葉通りに、「抑圧抵抗がまだ充分にその機能を果たしている」というわけである。上司に当たる人物は、ここでは欲動に対する抑圧や抵抗といった規範的なものを象徴している。

この夢で特徴的なのは、いつものように前日の出来事や内部感覚が夢の中で喩的に再現されているのではなくて、概念的思考が解体されて、空間的状況的な形象継起に類比変換された、ということである。夢は抽象的思考を絵画的具体的な表現に変える、と言われる。その見本のような夢である。

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