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嫉妬_100日後にZINEをつくる、83日目

「それが欲しい」という欲望が腹の底から湧きあがり、それがない自分が悔しくて悔しくて、なぜあなたがそれを得たのか、わたしとあなたのどこに差があるのか、なぜ自分をこんな惨めな気持ちにさせるのか、ずるい!ずるい!と地団駄を踏む。

という、非常に厄介な感情。
嫉妬。

どうして人はただ羨望していられないのか。

大好きな相手が、別の方向に視線を向ける。
彼の頬を両手でぎゅっと挟み、顔をぐいとコチラに向かせる。
「あたし以外のもの全部、見ないで」

その時彼女が嫉妬しているものは何か。

彼の視線を奪うもの全てに対して?
自分の愛情を独占する、彼自身に対して?

わかっていることは、彼の愛情が全部欲しいということ。

上と下に挟まれた我が家の次女は、定期的に嫉妬の発作を起こす。

姉ばっかり話聞いてもらってずるい!
弟ばっかり抱っこしてもらってずるい!
私が一番損してる!

ずるい!ずるい!ずるい!ずるい!ずるい!
口から「ずるい」という呪詛がずるずるずると出てくるさまは、平安京の怨霊のようで圧巻。

「欲しい」という欲求の凄まじさは、自分をも傷つける。

子どもの頃、2才年下の妹が妬ましくて仕方なかった。

プライドと自意識の原石であり、自惚れの強い自分を隠して生きていたわたしは、肉厚のまぶたの隙間から常に世界を馬鹿にしていた。
大人を嫌いな子どもが、大人に可愛がられるはずはない。
しかし子どもである自分は「デブでブスだから優しくしてもらえないんだ」と信じていた。

対照的に、「手のかかる子ほどかわいい」を絵に描いたような妹。
大人たちは「何をしでかすかわかったもんじゃない」と言いながらも彼女を見つめ、「あの〇〇ちゃんの、お姉ちゃん」としてわたしを認識した。

誰を目の前にしても、臆せず自分でいられる彼女のことが死ぬほど羨ましくて、殺してやりたいくらい嫉妬した。

あの頃の自分の気持ちは鮮明に覚えている。
わたしは妹になれば満たされたんだろうか。

わたしは、妹になりたかったのではない。
わたしのままで見てもらいたかった。
誰に対しても臆せず自分でいられるようになりたかった。

欲しかったのは、わたしの姿形を愛してくれる人。
わたしの性質を「才能」と呼んでくれる人。
一緒にいて幸せな人を見つけ、選べる自分。

わたしの欲しいものなんて、誰も持っていなかった。
ただ満足したかった。自分に。

それでも、自分に満足するための努力は億劫で、あらゆる言い訳を駆使して40年。
今でもまだ、都合の良い部分だけをトリミングして「ああ羨ましい」と世界を眺めている。

子どもの頃と変わったことは1つだけ。
「満足できない自分」を憎まなくなったこと。
おかげで嫉妬に駆られる自分に幻滅しなくなった。

すっかり開き直ったわたしは、いいな!いいな!欲しい!欲しい!と、両足で地団駄を踏んで生きていく。

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