見出し画像

つかれているときに_100日後にZINEをつくる、55日目

朝早くから外出して、子どもの部活の大会で一日過ごしてへとへと。
会場にいるお母さんたちと、たわいもない話という名の情報交換をしたり。子どもたちのことを気にしたり、記録をとったり、写真を撮って部活内のママたちへシェアしたり、案外全身をつかう日だった。

1度くらいは子どもの部活に貢献しなよ、と促されてしぶしぶ送迎と観覧を引き受けた夫は、午前中は「眠い」午後は「疲れた」を連呼。
いつもの『誰か俺をケアして』モードにはいる。

妻は朝ごはんの準備で1番早起きして、会場では夫にかまわず「娘の部活コミュニティ」の中で動き回って忙しい。
5種目エントリーで疲れ切ってる娘にも当然ケアは要求できない。

それでもケアがほしい夫は自分の不快感を相手に持ってもらおうと必死。
例えとして今日あった具体的な会話を書き出してみたら、ただのKUSO of KUSO男 が出来上がってしまい、全削除。

わたしは夫の被害者になるつもりはない。
「クソだね~」の共感が欲しいわけではない。
「そんな夫捨てろ」の断罪が欲しいわけでもない。

わたしが興味があるのは、人がみんなが疲れている中で自分だけにケアがほしいときに、人は、特に子どもでない人が、どう振舞うか。
①自分がケアを要求するに値する「貢献」をアピールするのか、②相手の貢献を過小評価して自分の疲れの正当化をするか、③全力で駄々をこねるか。

「~してほしい」を上手く言えないときに癇癪を起すのは幼児。
では、癇癪っ子のまま大きくなってしまった人はその気持ちを誰に受け止てもらえるんだろう。


大人というのは本音と建前で生きている。
お互いが疲弊している時に、本音をフラットに投げたり、建前を一緒に眺めて見たり、お互いを傷つけずにコミュニケーションをとることは難しい。

うーん、睡魔によりここから思考を広げられないので、また改めて。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?