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信用できない世界で信じられるもの_100日後にZINEをつくる、92日目

自分に期待をしたくない。人から期待されることも苦痛。
応えたい気持ちよりも「応えねばならない」が強くなってしまうから。
自分に期待したくないのと同じ分量で、人に期待することも苦手。

人が自分を喜ばせようとしてくれることも苦手。
相手の望む分量で喜びを表現できているか、そんなことばかり気になってしまって、ただ素直に喜べない。

こんなことがあった。

次女の誕生日に母からお祝いと称して現金をもらった。以前から『お祝い何がいい?ケーキ代でいい?』と言ってもらっていたので、頭の中で過去の「ケーキ代」を思い浮かべ、5000円と認識。
先日、一緒に買い物に行ったフードコートで食事中、『お祝い忘れないうちに渡すね』といって1万円を差し出された。財布に5千円札が入っていたので、ありがとうと一緒に5000円を返す。『いいよ、おつりは』と言ってくれたけれど、孫3人にお金をかけたらキリがない。

「ケーキ代だけで充分ありがたい、ありがとう」

『え?なにその棒読み』

一瞬混乱するも、彼女の期待に添う受け取り方ができていない、と指摘されたのか、と理解する。

母が、わたしが、良い/悪いとか正しい/間違っている、という話ではない。「自分の望む熱量で喜んでほしい」と思う人がいる。その事実を目の当たりにするたびに、世界に対して臆病になる。
わたしは「相手の望む熱量」がよくわからない。

なにか贈り物をもらったら、どう喜べばいいのか。
何かを受け取る時に、何回遠慮すればいいのか。
「これもう着ないからあげる」ともらった服を、着てみたら微妙だった時に捨ててはいけないのか。返すべきなのか。
何かをお願いされてYESと返答したら、「相手の期待に100%応える」必要があるのか。その自信がない場合は「自分のモチベーションの範囲でなら」と毎回断りを入れる必要があるのか。

人は「期待」に対してどこまで責任を負うんだろう。

わたしは、階段を降りている時に自分の足の動きを意識してしまうと、右足と左足の筋肉の動かし方がわからなくなって転がり落ちそうになる。運転中に「見る」と「にぎる」と「踏む」を妙に意識してしまい、視界に映るものが認識できなくなる。「相手の期待」を意識すると、求められているもの、応えたい気持ち、頑張るべきこと、がぐるぐるまわって、気づけば「したい/させられている」が曖昧になる。

期待されることで頑張れる人や、期待に応える自分でありたい人もいる。
運転は慣れだよ、という人や、歩いてるだけで転ぶことなんてない、という人もいるだろう。
彼らとわたしの何が違うのか。

世界はわたしの知らない案配やルールで成り立っていることに、子どもの頃から圧倒されてきた。新しい場所でルールを差し出されると、どれを死守すべきで、どれは応用させていいのかがわからない。その全貌が把握できるまでは、硬直した挙動しかできなくなる。
「そんなの考えなくてもわかるじゃん」という台詞は何度も受け取ってきたけれど、考えてしまう、意識してしまうこの身体をどう扱ったらいいんだろう。

そもそも子どもの頃から、考えずに動くとロクなことをしてこなかった経験から、わたしは自分のことを全く信用していない。

何もない場所で足がもつれる人間にとって、この世界は見えない障害物でいっぱい。

わたしの知らないルールに基づいて生きている人たちは、わたしにとっては宇宙人。宇宙人から見たわたしも宇宙人だろう。
この、異星人同士が集まって生きていかなければいけない世界で、わたしもあなたも「同じ命がある」ということだけが唯一の確信。

命に不安を抱いたり、命に感謝したり、命なんて厄介なものを終わりにしたいと願ったり、それでも命を惜しんだりする。

尊敬する人物も、テロリストも、億万長者も、ホームレスも、極悪人も、到底理解不能な他者たち全員が自分と同じ命というエネルギーに生かされているという事実。
信用ならない自分を抱えるわたしが、信じられるものはそれだけ。

結局、このことを、神とか大いなる意志とか愛とかって呼んでるんだろうな。

1人でいいと思いながら、隣の宇宙人との共通項に安心を感じるちっぽけな自分でよかった。

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