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恥とはなんなのだ_100日後にZINEをつくる、60日目

さむいさむい雪の朝、家族がみんな家を出る。
朝の家事を片付けてぼちぼち仕事を始める午前中のひとり時間がだいすき。
コーヒーを飲んで生き返る。

ここ数年、サルよりゴリラ派

先週、夜中に酔っぱらって帰宅した夫が、髭剃りシェーバーで右の眉の一部を剃り落とした。お風呂後に自分の顔を鏡で見て、急に「眉毛を整えなくては」という衝動にかられたらしい。
次の朝、言われるまで気づかなかった(そもそも普段夫の顔に注目していない)わたしは「誰も気づかないよ」となぐさめる。しかし彼は「これがバレたら俺の人生はおしまいだ!」と激しくうなだれ、以後今日にいたるまで毎朝わたしのメイク道具で眉を描いて出勤している。

そんなに自分の見栄えを気にするなら、その長い爪を切った方がいいんじゃないか、ちゃんと歯を磨いた方がいいんじゃないか、顔くらい洗ってから出勤した方がいいんじゃないか、など思うことは山ほどある。しかし、彼にとっては「朝ごはんの食べかすをアゴにつけて出勤すること」よりも、「右の眉毛が一部薄くなっているとバレること」の方が数段恥ずかしいらしい。「恥」の概念は人の数だけある。

運動音痴のわたしが、外でスポーツを楽しんで不様な姿をさらすと、「よくそんな醜態を他人の目にさらせるね」と夫に白い目で見られるが、わたしは口の横にケチャップつけて外を歩けない。
東京に帰省した際「建物が大きい!人口密度がすごい!」と電車の中で感想を言うと、夫に「田舎もんみたいで恥ずかしいからやめろ!」と注意されるが、わたしは電車内で人の2倍足を広げて座る彼の振る舞いの方がよほど恥ずかしい。

私と小鳥と鈴と、みたいな口調だが、みんなちがって「みんないい」とは思えないのはやっぱり、「恥=そうありたくない自分」だからだ。夫の「恥」の基準はわたしの「恥」とはかけはなれているし、子どもたちの「恥」の感覚も当然わたしとちがう。

自分の恥はともかく、他人を見て「恥ずかしい」と思う、あの嫌悪感はどこからやってくるんだろう。
私と夫はお互いに「恥ずかしい奴だな」と思っているが、子どもたちからも「ママが恥ずかしい」とよく言われる。特に長女は学校でわたしがのびのび振舞う(目立つ行動をとる)ことをすごく嫌う。

自分の親が変だと友達に思われることが恥ずかしい。
これって、よく考えるととても高度な思考が必要だ。

相手を恥ずかしいと思う時、自分と相手の他に第三者の目、つまり社会の目が必ず存在する。この社会の目は、その人が生きてきた世界から与えられた目であり、自分で選びとったものではない。

夫がわたしに対して「恥ずかしい」と感じる時、きっとその行為は彼の生きている世界では許されないタブーなのだ。

そう考えると、彼の恥の感覚をわたしがむやみに軽んじることはとても失礼なことなのかもしれない。下着でお尻を隠す文化圏に生きている人が、そうでない文化圏の人に、お尻隠してる方が恥ずかしいよ!とパンツをおろされたら怒って当然だ。

夫よ、きみの恥を避ける努力を鼻で笑ってごめんよ。

夫婦でも、親子でも、みんな違う世界を生きている。
そのことを肝に銘じて、こんどから口元に朝ごはんのヒントをつけて出社する夫のことを「わたしの生きる世界のタブーをおかすツワモノ」として見よう。

世界の掟を壊してくれる他者がいるからこそ、わたしは自分の世界を生きていけるのだ。

と、ここまで考えてふと立ち止まる。
どうして人によって恥をかくことへの恐怖の度合いが異なるんだろう?プライドの高さだけじゃない気がするのだが。


うーん、続きはまた明日。

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