人食いカワウソが語る『スケアリーストーリーズ 怖い本』

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愚かな人間ども、こんにちは。

私は、この世で最も暗い河にすむ人食いカワウソだ。人食いと言っても滅多に人は食べない。トイレットペーパーを買い占めては食べているお前たちと違って、文化的な日々を送るのに忙しいからだ。突然だが、私の知的で有意義な映画生活を記録するメモとしてnoteを始めてみた。特別に公開してやるから、汚泥を這いずり回るような惨めな人生から抜け出したい…という向上心を持つ者は自由に読むがいい。

ちなみにnoteのアカウントは、ぬまがさワタリとかいう知人の不審者が作ったものを勝手に借りた。奴が何者かはよく知らないし興味もないが、動物のイラスト図解だの映画の感想だのをうわごとのように書き散らしているらしい。不気味なやつだ…。(どうせ暇だろうからイラストだけ描かせてやった。)

不気味な不審者は放っておいて、さっそく『スケアリーストーリーズ 怖い本』について語るとしよう。お前たち人間は頭が単純なので「へ〜、怖い本について語るのかぁ」と思っただろうが、違う。本作は怖い本ではなく、怖い映画だ。私は映画好きのカワウソなんだからいきなり本の感想を語り始めるわけがないだろう。いい加減にしろ。

とはいえお前たちの単純な頭だけを責めることはできない。かくいう私も最初は「きっとオムニバス形式で短編ホラーが連なった映画なのだろう」と思っていたからな。なので映画が始まって、まるで『ストレンジャー・シングス』や『IT』のような子どもたちの青春群像劇が始まった時は少し驚いた。

舞台は1960年代のうら寂しいアメリカの田舎町。少女や少年がハロウィンのお祭りに繰り出したり、いじめっことモメたり、よそ者の仲間と出会ったりする。こう書くとまさに『ストレンジャー・シングス』だが、別に超能力を使える児童とかは出てこない。単なる無力な子どもたちが、ひょんなことから「恐怖の物語」がたくさん詰まった「怖い本」と出会ってしまい、その怪談が次々と現実化していく…という不吉なストーリーだ。(なので『ストレンジャー・シングス』と比べても子どもが容赦ない目に遭うし、そこそこ死ぬ。そういうのが苦手な繊細な人間どもはやめておけ…。)

そう、本作は「オムニバス形式の怖いストーリーが詰まった怖い本をめぐる怖い映画」なのだ。お前たちのシンプルな頭はこの程度のメタ構造にも耐えられずに爆発してしまうかも…と一瞬だけ心配になったが、よく考えるとどうでもよかった。先に進もう。

監督はノルウェー出身のアンドレ・ウーヴレダル。伝説の怪物トロールを追うモキュメンタリー(フェイク・ドキュメンタリー)の『トロールハンター』や、謎の女性の死体を解剖するホラー『ジェーン・ドウの解剖』で知られる映画監督だ。独特なメタ構造は『トロールハンター』、生理的な嫌悪感を刺激する(しかし不思議な美しさを放つ)ホラー場面は『ジェーン・ドウの解剖』と、本作は監督の代表作をそれぞれ想起させる内容と言える。

映画が始まってまず目に飛び込むのは、そのハイクオリティな美術だ。ビジュアルに徹底的にこだわる名匠ギレルモ・デル・トロがプロデュースを勤めている、という点も大きいのだろう。時代設定の1968年といえば、ホラー文脈でいえばちょうど『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が公開された年だ(劇中で人間どもがドライブインシアターで観ていたな)。社会情勢的にはベトナム戦争の泥沼化、キング牧師の暗殺、大統領選挙といった不穏な風が吹き荒れていた時代といえる。何か取り返しのつかない大きな出来事が起こり、未来にはさらに不気味な何かが待ち受けているような不安が渦巻く、アメリカの寂れた田舎町…。ホラー映画の舞台としては申し分ない世界を、優れた美術によって巧みに再現している。

先述した通り、子どもたちが廃墟の屋敷で見つけた「怖い本」に書かれた「怖い物語(スケアリーストーリー)」が、なぜか次々と実現していく…というのが本作のストーリーだ。それぞれの物語に不気味で突飛な造形のモンスターが登場するのだが、なんとCGではなく、全て特殊メイクや特殊造形によって実在の人間が演じているというから驚きだ。原作本の『スケアリーストーリーズ』は、スティーブン・ガンメルによる挿絵があまりに怖すぎて学校図書館に置けなくなった…などという逸話があるらしい(ホラーが怖すぎて禁止とは、人間らしい間抜けな話だな)。逆にいえばそれほど愛されているビジュアルということで、本作の作り手はその生々しい恐ろしさをできる限り精緻に再現したかったのだろう。

ビジュアル面・ストーリー面ともに、最初のエピソードである『カカシのハロルド』は白眉といえるだろう。「お前のようなカカシがいるか」と怯むほど圧倒的に不気味な造形のカカシが、ある悪ガキに牙を剝く。迷宮めいた広大なトウモロコシ畑でカカシに追いかけられる圧迫感は悪夢のように幻想的で、オチも綺麗な円環構造になっていてゾッとする。余談ながら「カカシ」は英語でscarecrow(カラス怖がらせ)であり、「怖い本」の幕開けにはふさわしい存在なのかもしれないな…。

一人目の犠牲者が出てから、子どもたちは「怖い本」の内容が現実化していることに気付き、恐れおののく。もちろん怪異そのものも恐怖だが、一度「本」に書かれてしまった物語は絶対に変えられず、善良な子どもだろうと容赦なく死ぬという緊張感が恐ろしく、そのロジックを最後まで誤魔化さずに貫いたのも良かった。(むしろ途中から物語の記述パートが省略されて怖い出来事だけになってしまうのは、本作のもったいない点にも感じる。記述と出来事が交互に進んでいく…というような構成の方が、より本作らしい恐怖を生んだ気もするのだが。)

 なんにせよ、どのエピソードも短編ホラーとしての質が高く、子どもは眠れなくなってしまうかもしれないほどにイメージも鮮烈だ。「大きな足指」や「赤い点」といった物語はじっとりした生理的な嫌悪感を引き起こすし、ビジュアル的に本作を象徴する「青白い女」は驚くべき不気味さだ。バラバラの体が繋ぎ合わさった「ジャングリーマン」は流石にCGかと思っていたが、ものすごく体の柔らかい人間が中に入っていたらしい。すごい。

ちなみにジャングリーマンの異様な姿には、ベトナム戦争の悲惨きわまりない戦場への恐怖が投影されている…と登場キャラクターが明言していたな。同様に、他のエピソードの怪異にもあの時代の出来事にまつわる何らかの恐怖が反映されている、と考えるのも面白いかもしれない。恐怖こそは最も鮮烈に時代の空気を映し出すものだ。(つまり「今の」恐怖でもあるということだが。)

そしてこの映画の本質は、最終エピソードにあるといえる。「ひとたび書かれてしまえば絶対に止められない物語」によって仲間を失い、自分自身も絶体絶命に追い込まれた主人公が、本を拾った廃墟の屋敷に舞い戻って、呪いの根源となった女性と対峙する。それによって主人公は、「怖い本」がどのように生まれたかを思い知ることになる。

そこで明らかになる真実は(私の解釈では)こういうことだ。この世界は惨たらしい搾取と絶望に満ちていて、その連鎖が時として呪いに満ちた「恐るべき物語」を生み出す。苦しむ弱者が声を上げたところで、強者はそれを覆い隠そうとするし、お前たち人間は他人の苦しみになど無関心なので、大抵は「弱者の物語など自分には関係ない」と無視するだけだ。だがその「物語」はいつしか逃れがたい「運命」となってお前たち自身に牙を剝く。愉快なことだ。本作で描かれているのは、まさに現実世界の写し鏡ではないか。全くもって、ホラーとはかくあるべきだ。愚かな人間どもが運命に翻弄される哀れな姿を心ゆくまで味わえるからこそ、ホラー映画を観るのはやめられないのだ! 

…しかしこの映画の結末で示されるように、「苦しんでいる他者の物語に耳を傾けること」だけが、お前たち人間の無残な物語を「書き換える」ための微かな希望なのかもしれないな。カワウソの私にはどうだっていいことだが…。

そろそろ語り飽きたので河に帰る。noteを始めたとは言ったが続けるとは言ってないので、私の映画語りは今回が最後かもしれないし、また語るかもしれない。語るにしても数日後かもしれないし10年後かもしれない。お前たちの時間の感覚など知ったことではないが、せいぜい長生きすることだ。

愚かな人間ども、さようなら。


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