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愛は、愛を信じていない人間しか表現しえない。

全部ゆるせたらいいのに 一木けい 初読


バッカ泣いた アホみたいに泣いた
ベローチェで最後のラストスパートかけたらアホみたいに涙止まらんかった。最悪だけど最高。

一木けいさん。『1ミリの後悔もない、はずがない』めっちゃ気になってたのよ。まだ読んでないんですが。なんで『全部ゆるせたらいいのに』を先に読み始めたかというと、本の帯の桜木紫乃さんの、「愛は、愛を信じていない人間しか表現しえない。喝采だ」という文章にもの凄く惹かれたからで。
太宰治の「本を読まないということは、その人が孤独でないといふ証拠である」の言葉にもあるように、読書してる人って基本は何かしらの孤独に自覚的である人だと思うんですよ。
私もそう考えられるくらいには孤独というものに親しみを持っていて。
この本を読んで、もしかしたら孤独って"愛すること"と"愛されること"の間にあるものなのかもしれないと思った。
愛することにも愛されることにも孤独は付きまとっていて、何かに愛される人間は何かを愛さずにはいられないし、何を愛する人間は何かに愛されることを求めずにはいられないと思うんだよ、
そこに見え隠れしてしまう欲望が孤独というものの本質なのかもなと思った。
何かしらを 愛しているから/愛されているから 孤独を感じられるわけで、逆もまた然り、孤独を感じるから何かしらを 愛したり/愛されたり ということに自覚できるわけで。
それをすごく考えさせられた物語だった。
孤独と愛は表裏一体なようで実は地続きの延長線上に、点々として現れるものなのだなあと。

「愛は愛を信じていない人間にしか表現しえない」
この一文、天才だと思うんですけどわたし。
こんなにストライク!バッター三振!みたいな文章、解説とはいえなかなか見ない。
うーん、言葉でこの分の何が的確かを説明するのが難しい。
類義語は「憧れとは理解から最も遠い感情である」かな。私の感じているものとしては。
愛していた/愛されていた って愛がなくなった途端に表現できるもので、その表現に説得力が生まれるものだということかも。
愛している/愛されている の説得力と 愛していた/愛されていた の説得力って違うものな気がして、現在進行形で行われている愛ってどんなに言葉を尽くしてもまだ未来はわからないから、それがいくらでも偽りに変わってしまうけど、 愛していた/愛されていた って過去形だから何が起こったかを全てひっくるめての"事実"として表現できるから、かな
うん、それだ 愛の真実性と事実性の割合の違いだ。
で、愛を信じていない人間にしか表現しえないっていうのは、信じていないという結果には必ず実体験に基づく過程があるはずでそれって愛の事実性についての拒否反応だと思うんだよ だから、「愛は愛を信じていない人間にしか表現しえない」になる 特にこの本に拠れば。 

難しい話は置いておいて、構成がずるくないですか?
①「愛に絶望してはいない」
②「愛から生まれたこの子が愛しい」
③「愛で選んできたはずだった」
④「愛で放す」
読者を"読ませる“という点において素晴らしい構成だった。
①は千映と宇太郎の関係の話で、私がよく最近痛いほど思ってる「大人になる」ということの話だった。
変わってしまうことが沢山あって、まだ赤ちゃんの恵を差し置いて飲みふける宇太郎。千映のいう「お父さんのようになってほしくない」とはどういうことなのかと思いながら、千映の父親がただただ最低なことだけが分かった
②は千映の両親の話で、でも①で語られた千映の父親像とはまるで違くて幸せで、賢くて、ただただいい家族、いい両親だった。幸せだった。
③は父親目線で父親苦悩を先に書いておきながら、途中の千映の「言葉で解決しよう」から(ん??)と思い始めてからのパンドラの箱。ただ、自覚がないのでそのシーンは千映目線で補完するしかなく、ただただ語られる父親の娘との関わり方に悩んでる感じとか、それでももの凄く愛していることが伝わることだとか、②で語られたこととかが物凄く響いてただただ苦しくて、愛と愛の狭間に生まれる孤独が、淋しくて侘しくて、悲しかった。
④は全ての執着地点という感じで。「断酒して孫に普通に会いたい」か。信じられないくらい泣いてしまった。許すことも、許されることも辛いとはこういうことだと思った。 

父親のことは許せないし、許したくもないが、愛されていて、愛していたし、だからこそそこに生まれた孤独が全てを巻き込んで奈落に落ちていった。そんな物語だった。いい話だった。久しぶりにものすごい良作を当てたと思う。

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