今、ぼくらの七日間戦争を読むということ


通っていた小学校の図書室の奥の方でひときわ目を引くのは、ある本棚の1段。そこだけとてもカラフルで、同じシリーズらしい。初めて図書室に来た時からなんとなくずっと気になっていたものだ。

宗田理さんの「ぼくらシリーズ」だ。


○懐古シーン
(飛ばしてok)

こんなん読むヤツどうせヒマなのにわざわざ飛ばすとは



実写化した映画の1カットであろう写真が表紙になっている文庫本は親が持ってたし、今本屋には書き下ろしも含めた新装版の文庫が出てるけど、やっぱり僕のイメージはポプラ社の単行本だ。

シリーズを並べるとカラフルだし、表紙にはかっこいいかわいい登場人物。1作目の表紙は主要な登場人物が全員並んでいるイラストなんだけど、背表紙には1作目の表紙から1人ずつ切り取られていて、それが当時の俺としてもアツい仕掛けだった。

タイトルのフォントもポップ過ぎずシリアス過ぎず、逆張り男の私も好感を持った。

しかも、戦争????

計画??危バイト??

なにそれ!ヤバイかんじがする!

そんなポプラ社の単行本は、教室のロッカーに入れてても目立つし、ほとんどの小学生男子は活字を読まないどころかそもそも図書室にも来ないし、マウンティング逆張り男は、借りる度に得意気になっていた。


そんなこともあり、図書室にあるぼくらシリーズは全て読んだ。

記憶が危ういけど、中学編全巻と、高校編の何巻かと、登場人物も違うシリーズ(表紙が銀色とかだった)の2巻は読んだような。

(そういえば、まだ図書室に置いてない作品を本屋で見つける度、図書室担当の先生にお願いしてたな。だいぶ後だったけど実際に仕入れてくれたし、ピカピカの新品だったし嬉しかった。入荷の度に上級生と取り合いになった気がする。)


やっぱり男の子はコンプリート欲というものがある訳ですが、何色のヤツまで読んだかということは、ステータスであり、とてつもない達成感があります。借り物だから手元には残らないのに。

ハリーポッターは逆張って(?)タイトルロゴの時点で受け付けなかったし、江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズは2作目(?)の少年探偵団まで辿り着くものの冒頭で撃沈。忘れた頃に、たしか2作目が読みかけだったことを思い出し何度か借りてみるものの、貸出期限が来ても数ページしか読めなかった。なんでだろう。


そんな私にとって、シリーズのほとんどを読了したぼくらシリーズは、革命だし、快挙なのであった。

○とうとう本題


懐古シーンでは、内容について全く触れてない訳ですが

※ここからネタバレになるかもしれないのと、手元に本が無くて小学生の頃の記憶を辿ってるので、そんな変なこと言ってないはずだけど内容などおかしい部分があるかもしれない!すまん!あくまでエッセイ、俺の雑感であることをご了承ください!エッセイ!エッセイって便利な言葉!エッセイ!エッセイ!


今なぜか、ふと、ぼくらシリーズの事を思い出した。

髪の毛においては10倍以上伸びた訳だし、精神面もきっと少なくとも1mmは成長したと思いたい。精神をメートル法で測ることはできるのか、できたとして精神の1mmは大きいのか小さいのかはわからんけど。


そんな今の自分が、またぼくらシリーズを読んだとき、何を思うんだろう。


小学生の頃、次の展開が気になって、ワクワクしながら読み進めてったけど、忘れてるとは言え一度(いや中学編は何周かしたような)読んでるし、同じ気持ちで読むことはできないだろうし、むしろ、そうであってほしい。

① ぼくら?

今思うと、【ぼくら】というのも、中々匂わせな単語である。


作品は基本的に菊池英治(字合ってるかな、たまに誤字で栄治になっててそっちは覚えている)の一人称で物語が進んでくんだけど、
リーダー格の相原という人物が英治に、

「全共闘って知ってるか?」

と質問する場面がある。あった気がする。

彼らの両親は全共闘世代で、確か相原の両親は学生運動に参加してて、英治の両親はノンポリで、とにかく、ぼくらシリーズは全共闘がモチーフになってたりする。

自分は、ロックやヒッピーカルチャーの面から70年前後の日本について掘り下げていたけど、当時の日本の文化を知っていくと、全共闘は、ほぼ確実に打ち当たるテーマだと思う。


なんとなく、全共闘について、
今の自分と同じ年齢くらいの人たちが強い意思を持って、大きな運動を起こしていたことにアツくなったり(実際はお祭り騒ぎに便乗した思想の無い人もいたみたい)、
現在の日本の空気感や自分に対して無力感を覚えたりしながら、
俺は、抵抗する姿勢に、権力に対するカウンターとしての憧れを抱いていた、こともあった。

② カウンター?


数年前、友だちに連れられ、学生運動をテーマにしたドキュメンタリーを渋谷の映画館へ見に行った。友だちは大友良英さんが音楽をやっていて映画の上映を知ったんだと思う。(実際音楽はめっちゃよかった)

内容は細かく覚えてないけど、
学生運動のブレインとなる人物が、高校時代にその前身となる運動を起こしていたエピソードや、
運動がエスカレートするにつれ、ブレインに対して違和感を抱きながらも共に歩んだ人と、離れていった人の現在のインタビューなどを、時系列でまとめた映像だった。



何も知らずに漠然と抱いていた憧れは、
【ぼくら】の証言によって崩れた。

③ 相原というヤツ

さて、話がぼくらシリーズに戻るけど、
ドキュメンタリーを見て当時の証言を知った上で、相原が全共闘をモデルにしたことについて考えると、

・彼は学生運動に対して、筆者がドキュメンタリーを見る前のような憧れを抱いており、その憧れから、学生運動をモデルにした。

・彼は、彼の両親たちを一泡吹かせるため、息子である自分が学生運動のおままごとをする事で、全共闘世代をからかった。

の、いずれかなんだろうなと考察できる。

(どれかを決定付けるような、キーになるセリフとか行動があるかも)

読んでいた当時は、

「相原は、かしこくて、ものしりで、たまになにかんがえてんのかわからんしちょっとこわいけど、かっこいい」

とか思ってた気がするが、こう分析すると、どちらだったとしても、中学生らしい、単純に言ってしまえば「ガキ」だな、と思う。

「中学生らしい」という字面を、予期せぬ形で久しぶりに見てしまい、しかも自分がつくった文章から出てきたことに感動している。学生手帳の校則の欄にあった【中学生らしい頭髪】とは一体どんな髪型を指すのだろうか、未だに疑問である

○まとめ


思った事をまとめた、と言って汚い字で書いた400字詰めの原稿用紙10枚を提出して、それを丁寧に読んでちゃんとコメントをくれるような先生がいたとすれば、僕から先生に花丸をあげるべきだし、少なくともその先生は、同窓会を催すときにお誘いするべきだと思うが、そういう先生は、女の先生であれば、関わり始めて割とすぐに産休に入ってしまったり、男の先生であれば、女子たちがあんまりいい噂をしなかったりするのはなぜだろう。

長々と3,000字以上もつかって、結局このノートはなにを言いたいのか、というお話。

・今北産業


①見聞きしたり体験したりして湧いてきた感情は、そのとき1回限りのものだということ。

②時が経って同じ事実を思い出したり再体験したとしても、それまでの間にインプットした別の事柄やアウトプットされた感情によって、全く同じ感情は湧かないということ。

を再確認し、

さらに、

③同じ感情を持ちたくないという俺の我儘も、文章をまとめる中で発見することができた。

と思った、お話。


・kwsk


終着点も無いままつらつらまとめだしたのに、最近たまに考える③のような思考が垣間見えるのは、自分でも興味深い。

③については意識的にやっていきたいと思っていて、これを怠った結果がいわゆる"老害"というやつなんだと思う。

"老害"は言葉の響きがあまり好きではないんだが、価値観を今、もしくはちょっと先の時代の仕様にアップデートできず、挙句の果てにはサ終とか、少なくとも何かクリエイティブなものを生み出して受け手の感情を揺さぶる側の立場である俺は、嫌だ。(こういうことを改めて文章にすると小っ恥ずかしいが、あえて言っていく)


①②から、湧いてきた感情は大切にしたいが、それが過去のことになったのであれば、あくまでその感情が起きたという事実として、ドライに受け取るべきで、その感情に浸るままでいることは怠慢である、と断言したい。

これは先ほどの老害になりたくない、にも繋がる話だな。
今の気分は、断言したい気分なので、断言しておく。

歳を重ねても、好きなものが嫌いになったり、気にならなかったものが好きになったりしたい。なんかその方が魅力的な人だも思わない?

いつしぬんか、あした、今、しぬんかも、わかりませんけど、だったらなおさら、ね。



長文駄文すみません。

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"解放区より愛を込めて"

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