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2024/7/15 行こうぜ 行こうぜ 全開の胸で

[リヴェ;リフェ]


直径60メートル程の円に世界はあった。
まばゆいほどに主張する瑞々しい黄色い石畳。
瓦解した二本の柱。
あちら側とこちら側を切り取る六枚の大きな壁。
壁の一枚一枚が右の壁に支えられるように傾いて立っていて、つまり全ての壁が全ての壁を支えるようにして空間を切り取っている。
円の中心に位置するところに小さくてお洒落な丸いテーブルと二組のアームチェア。
テーブルの上にはガラスのティーポットが一つ、結露をいっぱいと琥珀色の液体を蓄えて湯気を立てている。
ティーカップは二つ、目も眩むような真っ白い容器に金の帯が一筋入った綺麗なカップ。
やはり二つとも湯気を立てている。
そしてカップ二個とポット一個の計三つの湯気を超えたテーブルの反対側に少女はいた。

少女は言った。

「問1、あなたはだぁれ?」

今は問24、に至る。
内容はいまだ「わたしは誰か」ということだ。
当然、わたしだっていろいろと答えた。
「わたしは霊長類だと思う
「わたしはホモサピエンスであるといえる
「わたしは黄色人種である
「わたしはXX染色体を有している
「わたしは亜細亜の極東の島国に居住していたはずだ
「わたしは…

etc.etc.etc.etc.etc.etc.

彼女は全ての答えに薄く微笑むだけで、何も答えない。
そして次の問がはじまるのだ。
即ち。

「問n、あなたはだぁれ?」

コギト・エルゴ・スム
我思う故に我在り?
馬鹿馬鹿しい。おためごかしだ。
想像をさせられる前からわたしたちは存在し翻弄される。
今のわたしがまさにそうじゃないか。
閉ざされた籠の中で狂ったティーパーティーをして禅問答を受ける。
思考を鼻で笑いたくなったが、そこにピンと来るものがあった。
狂ったティーパーティーか。

わたしは言った。

「或いは、わたしはアリスかもしれない」

そう言った時の少女の表情は忘れることが出来ない。
花が咲くような蜜が香るような芳しく恋しい微笑。
少女は急くように言った。

「問121、ならここはどこ?」

「ここは狂った帽子屋の家だ」

「問1331、ならわたしはだぁれ?」

帽子屋、と言いかけてやめた。
少女こそがアリスだったからだ。

「君がアリスだ」

そして―――、

「問25、あなたはだぁれ?」

全ては振り出しに戻った。

時が流れた。
いや、もしかしたら時は流れていないのかもしれない。
カップとポットからは相変わらず湯気が立ち上っている。
そんなはずはない、と憤りもしたが、それもやがて虚しくなった。
ここではそういうことが起こりうるのだ。
少女は相変わらず問かけてくる。

わたしは何者か、と。

アリスの登場人物を当てはめて考えたがその後、手ごたえは無かった。
いつかのような微笑も得られず、次なる問も得られなかった。
問121と問1331。いずれも11の二乗、三乗だ。
とするとアレは問11の回答と言うことになるのだろうか。
あの時問われていたのは問24だ。
数字が合わない。

ふ。

笑みが出た。
数字が合わないところでなんだというのだろう。
何も解けないことには変わりない。
わたしは紅茶に手をつけた。
何時間もたったように感じられるがいまだ紅茶は熱く、葉のダンスを想像できるほどの濃密な香りを有している。

ト。

実際には音など無かっただろう。
手と手が重なるときに立てる音など聞いたことも無い。
けれど洋菓子のようなか細い指がわたしの手にしっとりと触れたとき、その音をわたしは確かに感じた。
もしかすると手と手の重なる音ではなく、それは鼓動の音かもしれない。
心臓が動いて生きている音が少女の手とわたしの手を音速を超えて伝い響いたのかもしれない。
少女はわたしの掌に文字を書いた。
少女の指が掌に触れた瞬間、視覚がそれを映し出した。
だからそれは苦労することなく理解することが出来た。

□+△=○

X+Y=Z

書いた文字の意味がわからず顔を見ると少女は唇を動かした。
声は無い、でもそれは聴こえた。

                    わたしたちはそれ。

神降的天啓と官能的体験の二つを同時に味わったわたしはそれに気が付いた。
わたしたちは□であり△であり○で、且つXでありYでありZである。
わたしたちは記号である。
国籍や人種や性別は問われないのだ。
彼女は少女であり、或いは黒い大きなドラゴンであるかもしれない。
わたしはヒトであり、或いは過去という概念であるかもしれない。

わたしは言った。

「わたしは猫だ。悪行という悪行をやりつくした体躯のしなやかな黒猫だ」

少女は微笑んで問う。

「問144、ならここはどこ」

わたしも微笑んで答える。

「危険な路地裏だ。この辺を仕切ってるのは紅の首輪のハチ一家で、こんなところを見られたら血の雨が降るのはあたりまえ」

「問1728、ならわたしはだぁれ?」

「君は一丁目の金持ちの飼い猫。白くてつやつやの毛皮だ。そしてわたしは君に恋してる」

うん。
うん。うん。

わたしも少女も笑ってうなずいた。

これはこれで一つの正解だ。

……

「問n、あなたはだぁれ」

「わたしは老いぼれた漁師だ。もう漁師になって70年は経つ」

「問n×n、ならここはどこ」

「ここは化物鯨の腹の中だ。200年以上生きてると言われている巨大鯨で、その大きさは巨大客船よりも一回り大きい」

「問n×n×n、ならわたしはだぁれ」

「君はわたしの息子だ。もう15年も前に化物鯨に呑まれていたが、君は鯨の中で生きていた」

……

「あなたはだぁれ」

「わたしはマレーという名の王妃だ。国民を顧みない贅沢の限りを尽くしていたために明日、処刑される」

「ならここはどこ」

「ここは独房だ。暗くて寒くて埃っぽくて薄汚い独房。わたしは明日の処刑のことも考えず爪を磨く時間なのに家来が来ないことを怒っている」

「ならわたしはだぁれ」

「君はわたしの従者だ。名はコリン。わたしが気まぐれに拾った孤児の従者。君はその恩に報うためわたしを逃がすことを画策してる」

……

何度の問答が終わった頃だろうか。
それは当然にして突然だ。
高い高い空の高みのその上から、進路を変えず真っ直ぐにわたしのもとに降りてきて。

ス。

っとわたしの目の前で止まった。
透明で、きらきらとして、屈折している。

雨粒。

わたしは顔を上げた。
わたしを閉じ込める六枚の壁が少し開いている。
そして気づいた。
わたしがだれで、ここがどこで、少女がだれであったのか。
少女はわたしが気づいたことを察してふわりと微笑んだ。
芳しく、恋しい。

「あなたはだぁれ」

「わたしは雨粒。生命の漲り。開花のノックだ」

「ここはどこ」

「ここは蕾だ。花咲く前夜の夢の中」

「わたしはだぁれ」

「君は―――花の精だッ!」

少女の唇が「せいかい」と言った。

ばさあああああぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁ!

六枚の壁が生命の騒々しさを奏でて外に倒れ、花が咲いた。
純白の慎ましやかで穏やかな花。
雨粒に濡れて揺れて、首を振りながら生きることを謳歌している。

「ありがとう」

少女はそう言って消えた。
わたしももう行かねばならない。
土に消え、地下に潜り、湧き、川になり、海になり、雲になり、雨となって、また彼女に出会わなければならない。

だから、それまではさよならだ。君よ。


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