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2024/7/14 恐ろしい夜がやってきました。全員、目をつむってください。

狼は街をうろうろしていた。なんだか酷く苦い気分だった。
そういう時、狼は数を数えて苦い気分を遣り過ごす。
路上駐車をしている車、13台。
そのまま視線を通りに移す。
冬の小さな太陽はビルディングの窓ガラスに反射して眩しい。その中を色んな人が各々の行き先に向かって文句も言わずに歩いている。
ビルディングの窓の数、15×6=90個。
どうしてそんなに必死なんだろう、と狼は思う。狼にはまず行き先すらなかったから。
タムロしている女子高生の数、5+6+6+2+7=26人。
仕方なく狼は図書館に行って新聞を隅から隅まで読んでみた。時間を潰すためだ。3年前の11月5日の新聞だった。なんとなく手に取っただけだ。
記事には知らない事件ばかりが乗っていた。
トルコで地震が起きていた。ウズベキスタンで選挙が起きていた。万引きで潰れる本屋の数が増加していたし、六本木ではホステスが刺されて犯人の32歳の主婦が逮捕されていた。32歳の主婦とホステスとの間にどういった事情があったのかは書かれていなかった。
そしてどの事件も一様に3年後には影響を与えなかった。
「3年前」と狼は小さく口に出して言ってみた。それは頼りなく薄っぺらな響きに聞こえた。
狼は3年前に何をしていたかを思い出そうとした、でも何も思い出せなかった。
兎と暮らすより前の事を狼はあまり覚えていなかった。
兎と暮らし始めた頃の事は覚えてる。
2年前の丁度今頃だ。
そこまで考えて狼は新聞に目を戻した。でももういくら見ても読んでない記事はなかった。それで狼は図書館を出た。

「3年前!?」と兎が驚いたように聞き返したから狼は聞いちゃいけない事を聞いたかなと思って困った。
でも結局「うん」と言った。
「なんで?」
「3年前の事って全然覚えてないんだ」
「あたしと会ったのは?」
「2年前の冬だよ。ハッキリと覚えてる」
「それはハッキリと覚えてくれてるんだ」
「もちろん」
「じゃあ早く来年になればいいな…」
「どうして?」
「だって、そうしたらあたしとの出会いが狼の3年前の記憶になるでしょ」
そう言って兎は微笑んだ。
確かにそうだなと思ったので、狼も笑った。
それで3年前に兎が何をしていたかなんてどうでもよくなってしまった。狼はあまり長く物を考えていられないのだ。

狼は兎が好きだった。
いっそ食べてしまいたいぐらいに。
でも兎を抱いた事(もちろん性的な意味だ)は一度だってなかった。正確には抱けなかったとも言う。
狼はそれをたいした事だと思った事はない。けれど兎はどうだろう、と考えると怖くなってしまう。
もしかしたら兎は自分をちゃんと抱いてくれる人の方が良いのかも知れない。
そう思うと狼は哭きたくなってしまう。
「兎に嫌われたら自分は死んでるの一緒だ」
狼は心からそう思う。

「はぐらかしてしまった」
と、兎は自己嫌悪に陥りながらいつもの街角に立った。
兎は娼婦だ。もちろんそれまでだって娼婦だったし、これからだって娼婦でやってくつもりだ。
その娼婦の中でも兎はフリーの娼婦をやってる。フリーってのは要するにバックがいないって事。貰えるお金こそピンハネなしで貰えるけど、迷惑なお客が来ても自分で対処しなきゃいけない。そして何よりも悲しい事に、この業界には迷惑なお客が多かった。そのせいで三丁目のアンゴラもホトも仕事を辞めざるを得なくなった。
兎は辞めなかった。迷惑なお客があまり来なかったというのもある。兎は身長が150cmに満たない。それを目当てに来るお客はみんな優しくしてくれたし、常連が多かった。けれど、それよりも兎が娼婦を辞めなかった一番の理由は娼婦という仕事に誇りを持っていたからだ。
セックスなんてのは誰でも一生に一回くらいはやるもんだ。少なくとも兎はそう思う。それでも身長が150cm以下の女とセックスしたいお客はいる。そして兎は身長150cm以下だし娼婦だ。そのお客さんをお金と交換で満足させてあげられるのは恐らく兎だけだ。その自分だけという唯一感に兎は誇りを感じている。だから兎は娼婦を辞めなかった。
比較的常連が多いと言っても、もちろん迷惑な客だって来たし、危険な事だってあった。
大抵の場合は兎の危険を察知する鼻の良さと接客で作り上げた友人関係の広さで切り抜けられた。

不思議な事に兎を買うお客の3分の1ぐらいは女性だ。
初めて女性に買われた時、兎は女性も娼婦を買うのか、とボンヤリ思った。彼女らは男性客と同じように(或いは男性客よりも激しく)兎とセックスをした。兎も商売なので女性の客を普通に扱った。
羊はそんな兎を買う女性客の一人で、そしてその中でもずば抜けて若かった。確認はしてないが未成年ではないかと思う。
「兎さん。4時間でおいくら?」と羊は朗らな音色で言った。
兎は営業スマイルで答える。
「プレイ内容次第だね。でも最低でも3万は頂くし場代もそっち持ちになるよ?」
「じゃあ、とりあえず3万円でお買い上げ~。ホテルはどこでも構わない?」
「どうぞ御自由に」
そうして羊は近場のホテルでたっぷり6時間、兎と(兎を?)楽しんだ。
別段いつもと変わる事のない(むしろ楽な部類の)仕事だった。
たった一つ、羊がヤクザの娘だった事を除けば、だが。
その夜から、兎は大勢の男に追われることになった。

羊には欲しい物があった。世の中の大半の人には欲しい物があるものだが、羊に限ってはそれは稀な事だ。
羊はお嬢さま過ぎる程にお嬢さまだったから。
朝に欲しいと思った物は夕方には手元にあったし、どんな高い物でも紙切れ一枚で(羊にとっては、という事だけれど)手に入った。
そんな羊だったから「欲しい物がある」という状態が刺激的に新鮮だった。
「欲しい物が手に入らないという事がこんなにも狂おしく、そして苦しいものだったなんて…」と羊は思った。
もちろんいつもの様にお父さまにおねだりもしたのだし、若い衆も動いている。じきに手に入るだろうとも思っている。まだ二日たっただけだ。
それなのに羊にとってその二日は永遠のように感じられた。
自分の中にこれほどの欲望が眠っていた事に羊は驚いていた。
それは飢えや渇きの衝動のようだった。
羊は何でも手に入れ過ぎて、焦がれるほどに人が欲しい事を恋と呼ぶ事を知らなかったのだ。
「こういうのって、悪くないなあ…」
羊はクスクスと笑った。

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