包摂の倫理

SDGsに当てはまらない問題なぞないのではないかというほど、SDGsは手広い。ここには包摂の倫理がある。問題を問題として認識すれば、解決策を考える人間が生まれる。だから、問題提供者や組織運営者はあらゆるものをその部分として持つ集合として大きくなっていく宿命を背負う。これらがその速度を増すと、援助よりも承認のほうが重視されるという状況が生まれる。絶対的貧困への経済的援助よりも性的マイノリティの社会的承認のほうが脚光を浴びているのはそのためだろう。しかし、認められても困るものには困る。承認は飯の種にはなり得ないのだ。女性の社会進出という話も、承認というパッケージをかぶせてはいるが、その実、システマティックな援助の話である。もちろん、承認されないとシステムは整備されない。しかし、現代のマイノリティの承認という文脈は承認欲求のような形をしていて、人から認められさえすればよく、後のことは自分で頑張りなさい、それでもうまくいかないのであれば君のせいだという、自助努力と無限責任に帰着している、ように思う。これはけっこう弱者にとっては修羅の道だ。経済的弱者は食いっぱぐれるし、恋愛・友情市場弱者は孤独に苛まれる。あらゆることが自由化してしまい、それらの責任はすべて本人のものである、というふうになっていくと、当然敗者が生まれるものだ。つまり、包摂の倫理であらゆるものを取り込もうとしていたはずが、それによって敗者やあぶれ者を詳らかにしているという状況が刻々と行われているのが現状だ。そもそもSDGsのようなルールメイキングは当然、違反と有利条件を策定しているのだから格差を生むことになる。ゲームのルールメイキングと同じだ。それが平等を謳っているのであれば矛盾している。共産主義国家みたいなオクシモロンだ。それでも、そうすることである程度前に進めるのも事実なのだろうが、そのことを認識することなくこの潮流にのっている人を見ると、自分が一体どんなことの片棒を担いでいるかくらいは自覚的である必要があるのかもしれない、なかなかそれが難しいのだが。

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