固有名詞の力と嘘

メモ帳に語彙語彙スーというタイトルで、普段出会った固有名詞を記録している。
僕は、品詞の中で固有名詞が一番偉いと思っている、と同時に、会話の中で固有名詞を乱発する人間をちょっとだけ軽蔑もしている。
固有名詞には、力と嘘がある。
まず、検索に強い。学術用語や地名、人名などは他の言葉では代替が難しく、書き手もこれらの言葉を載せているのでタグを見つけやすく、検索エンジンで拾ってきやすい。それが故に、流行っている言葉は検索上位にするためだけの記事を書いたりするので検索が濁りつつあるが、そうでない領域に関してはかなりの力を発揮する。
さらに、固有名詞はそれを知っている者同士だとショートカットができ、より遠くまで議論できる。深く、ではない。前提を共有した上でその先を議論するうえでは有用であるケースが多い。ただし、深さを求めるなら、その上で、固有名詞が持つ前提を問い直す必要が出てくるケースが多い。
それから、固有名詞は理解の補助になる。名前をつけると、僕らは不可視で実態のないものを認識できるようになるし、他と区別することができる。分けると分かる、というやつだ。
しかし、固有名詞には嘘もある。
確かマービン・ミンスキーの心の社会という本で引用されていた言葉なのだが、名付けることでそのことを理解できたように気になってしまうのであれば、名付けることはむしろ害である、とかなんとか。命名はほとんど発明に近い行為であるが、命名がそのままイコール理解ではないし、誰かの命名した用語を知ったとしても理解には程遠い場合が多い。この誤解を生んでしまうことが固有名詞の罠だ。
それから、固有名詞自体を説明の理由にしてしまうケースがある。たとえば、認知バイアスの中で、現状維持バイアスと呼ばれるものがあるのだが、いつも同じ席に座る理由を問うたときに、それは現状維持バイアスだから、と説明する手合がいる。現状維持バイアスという人間の傾向であり、同じ席に座るのはその一具体例でしかないのだが、なぜかこう説明すると納得する人がいる。つまりは、誰かに説明する際に固有名詞を使うと、なんだか説得できているような気にさせられることがある、ということだ。これは受け手が送り手よりも知識がない場合に、そういう風に言われているのであればそうなんだろうというとなるし、トートロジーなので間違えようがない、小泉構文と同じだ。
と、ここまで固有名詞をフィーチャーしたのだが、本当に凄いのは、実は動詞と形容詞ではないか、とも思う。
確か河合隼雄さんだったと思うが、心理学者は動詞を作るのが仕事だと言っていた。メガITプラットフォームのような企業も、ググるやツイートなどという新しい動詞を生み出している。文化の発信源女子高生だってエモいという形容詞を作るし、ねらーは凸るなどの動詞を生み出す。本当に新しい文化は存外、名詞よりも動詞や形容詞が作っているのかもしれない、それでも名詞が好きなのだけれど。

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