歯医者に行くということは、生きるつもりがあるということ

歯医者に行くということは、未来を生きるつもりがあるということ。

未来を生きるつもりも無ければ、食事を楽しむことも出来ていなかった去年一昨年の私は、歯磨きもろくにせず、一日中布団に入りっぱなしでTwitterとインスタのリールとYouTubeのショート動画と暗めのマンガを延々と行き来して、日が暮れる頃それに飽きたり疲れたりしたら自分の頑張れなさ、絶望を思い出して泣いて、泣くのにも疲れたら眠る、それで夜中に目が覚めて絶望してTwitterと動画とマンガと絶望泣きループ、みたいな生活をしていた。
不定期で虫歯が痛んだりはしてたけど、シンプルにサクッと死ぬつもりだったから歯のことなんてマジでどうでもよかった。
眠れないほど痛いわけじゃなかったし。
てかどうせ不眠だったし。

この前、ふと歯医者に行こう!と思って実際に行動に出たということは、もうちょい生きてもいいかな、という気持ちになったってことか、ということを自覚したことがなんだかすごく嬉しくて、何回か1人で泣いた。
死ぬのやめてよかったね。
死ぬのに比べたら口の中でガリガリゴリゴリ工事するぐらいどうってこと無いね。

てか歯医者さんが怖いぐらい優しい。
虫歯で歯1本折れて無くなってるにもかかわらず。
罹患歴の精神的不調にマルつけたせいなのか分からないけど、セルフネグレクトへの理解が着実に進んでいるのを感じる。
生まれる時代選び、悪くないかもしれないと思った。

いやまぁ別にこういう「治療の意思が湧いてえらい!」みたいなのは歯に限らないと思うんだけどね。
鬱本番の当時は、別に歯が全部無くなるほど虫歯が酷くなったとてもうすぐ死ぬし、食べることだって基本興味無いし食欲も無いしどうでもよかったし、お金無いし、飛び込む勇気出なかったし、とりあえずロープの結び方マスターしたけど、なんなら餓死が1番現実的かもな〜って考えてたし、どうでもよかった。
自分のことすべてがどうでもよかった。
周りにも迷惑をかけたけど、評価とかもどうでもよかった。

ただお世話になってた会社には、所属しているうちに死んだら「会社のせいで死んだのか!?」みたいになったら超迷惑だし先に退職してからひっそり死のうと思って退職した。今思えば捨てるべきは当時一緒に住んでいた男だけだったと気付いた時にはもう遅い。これは今も後悔してる。もっと甘えて休職とかで待っててみてもらえばよかった。
でも本気で死ぬつもりだったのも本当だった。
でも結局死ななかったので、頑張るぞと思っていたことを頑張りきれなかった私の己への最後の僅かな期待みたいなものが死んで自己肯定感は地の底を貫通してブラジルへ行ってしまった。
私の自己肯定感ちゃん、リオのカーニバルには出場できただろうか。それだったら浮かばれる。どうかケツ揺らして爆踊りしててくれ。たのむ。

鬱をやってから、書く文章が支離滅裂になったなと感じる。これは上記の言い訳でもあるんだけど、最初に何が書きたかったのか、起承転結をどうしたいと思っていたのか、頭の中でなにもまとまらない。
とりあえず今はアウトプットしたいと思ってるからするだけで、質は求めるつもりないし別に誰にも求められてないからいいんだけど。というのは負け惜しみで、完全に過去の自分に負けていると感じるのはシンプルにつらい。
まあ質は量からしか生まれないんだよって叱ってくれた先生のことを思い出して量書いてみるしかないね。がんばろう。もっと短い日記とか書いてみようかな。

とりあえず、歯医者に行くぞと思って、大嫌いな電話を勇気振り絞ってかけて、無事に通院が始まったんだよってこと、それがなんだかとっても嬉しんだっていう話でした。

通院頑張るぞ!!!!!

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