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あの力強い遠吠えが

今日は、だらだらと自分が占いと共存する決意をし始めたころの話をしたいと思う。

きっと、今日が一番ふさわしいので、無理をしてでも今日書こうと思った。だらだらとした文章になるだろうけれど許してほしい。

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ニコライの『ラ・ノスタルジー』を振って、珍しくびいどろで日本酒を飲んでいる。結局のところ正者のエゴなんだから、お酒なんて何でも良かったのだけれど、ちょうどよく新年に神社で祈祷を受けた際の御神酒が残っていた。

自分の人生の波乱万丈っぷりは、別の活動の方でさんざ報告しているので出来るだけ簡略化したいと思う。

ただ、結構な深刻でしんどい問題を沢山抱えてきた。だからこそ「神がいるとしたらそんな理不尽を見逃すはずない」と、目に見えないものの存在は自分を保つために、縋らないようにしてきた。

人生で特異点は沢山存在したけれど、19年の夏頃に5年程度の交際相手と婚約破棄をすることになった。お金もなく、既に同棲もしていて、帰る場所もない私には、それというのは課題の連続だった。

情動に浸ってても問題が解決しない人生だったので、とにかく遁走した。ITに進むのも、適性や状況を鑑みると最善だったけれど、それに伴って人生の全てを過ごしてきた地元を離れることになった。

しんどい人生だったので、人ほどは寂しさみたいなセンシティブな情動は麻痺してしまっているのだけど、普通に独りでの引っ越しや就職やの手続きに悩殺されていた。

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Twitterのトレンドでも今朝方見かけたね。「有名ボカロP」としてのその人は、未だに人の記憶という名の記録に残り続けている。

私が学生時代の頃の彼は「有名ボカロP」だった。私自身がボーカロイドに興味があったかというと、表現手段のひとつという認識だった。だから、ボカロPは合成音声とネットを介しただけで、バンドやシンガーソングライターの類と大差なかった。

ロキノン系なんかを追いながら、同時に目についたボカロPも追うような、私の音楽ライフがしばらく続いた。

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ボカロPはだんだんとライブ活動にシフトし始めた。

個人的には、初音ミクを一人の人格とみなしてプロデュースしている人もいれば、バンド活動よりも有効的な集客手段の一つに捉える人も多かったのではないかと思う。

要は、本当にやりたいのは純度の高い自己の表現であり、その為に売れ線を作ってブランディングを確立することで導線を張るという人も多かったのではないかと思うのだ。潜在意識か、顕在意識か。

とてもわかりやすい例は、ハチこと米津玄師なのだけれど、同時期に活動していた同レベルの人々も自己表現にシフトしては、口を揃えて自嘲する。

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あの人は、ボカロPとしてとても好みというわけではなかった。

大変失礼なのだけれど「売れ線を作る分析力と技術力がとても長けた人」という印象で「聴きたいくらいには好みだけれど」「代えが効かない程の魂の波長を感じない」というのが近かった。

「有名ボカロP」だったので、ボーカロイドとしての売れ線文化を上手くこなしてからのバンド活動への移行をした後も、他の人たちよりもメジャー行ったり商業活動はほどほどに行っていたようだ。

上記で述べたように「聴きたいくらいには好みだけれど」という理由で、彼がボーカロイドの戦場から退いた後も、全てのアルバムを追って彼の歌声を聞き続けていた。

ただその度に「器用だなあ」と思ったのだ。「器用」というだけではアーティストとしての成功はとても難しい。

数字が取れても、人の心が奪えない。心を振るえさせないといつまでもその数字は「代用品」としての数字でしか終われない。メジャーに言っても、唯一無二でなければ大きな爪痕を残すのは難しいのだ。

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19年の2月中旬。就職活動が佳境を迎え、都会に出ては毎日2社も3社も受ける日々が続いた。

その後に知ることになるのだれど、第一志望の会社に内定が決まり、10日を切った状態で4月1日入社が決まったことで、物件選びや引越や入社の手続きが始まる。

その時期に、あの人のアルバムを聞いた。

涙が出た。なんで涙が出るのかわからなかった。

私が普段、泣いたりする音楽ってのは負に寄り添うようなものばかりで、正で人を力づけるようなものは自分には無縁だなと失笑してしまう。だからこそ、力強いその声だったり、歌詞の内容だったり、別に特別にどこかが優れているわけでもないのに何が起きたのかわからなかった。

少なくとも、あの人のそれまでのアルバムと、何かが一気に変わったという事を認識した。そしてとてもそれは嬉しかったのだ。

上記の音楽たちは、エネルギーを与えるわけではない。温存するためなのだけれど、当時の自分は無茶苦茶に動いていた。明言できるけれど、あのアルバムの存在が無かったら、今、私はここにもいないし、こんなこともしていないだろうと思う。

バンド活動にシフトし、メジャーに出たものの、大きな情報の流れない「有名ボカロP」は社会から忘れ去られていた。だからこそ、あのアルバムを聞いた瞬間から「技術や売れ線じゃなく本質的な、魂を歌うようになった」「絶対に今年ヒットするから覚悟してろ」って周囲に進めて周った。

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19年4月。とんでもなく困難な日々の中で、身体を動かす時間しか無かった。移動時間はいつも爆音でアルバムを流すことで気付けして、空っぽの家で少しでも時間が出来るとまたアルバムを延々とリピートして泣き暮らした。

入社日には、結局布団さえも間に合わなかった。しばらくは床でカップ麺を食べる生活を続けながら、3日たつと外部研修に向かうようになった。

相変わらずの日々を続ける。折れないように、折れても気づかないように、気づいても根性で燃やせるように、時間があればアルバムを聞いた。金欠の中、全国ツアーのチケットを買うか毎晩悩んでいた。

4日の夜に、別日の公演中止の情報をTwitterで見て「誰か体調でも崩したのだろうか」と心配した記憶がある。東京はやるかなって。

5日の記憶はあまりない。友人の顔が研修中に真っ青だったけれど、研修が終わるまで教えてくれなかった。私のLINEだったりTwitterの固定ツイートの全てがあの人だったから、ショックを考慮して飲み込んでいてくれたらしい。

何を思えば、どう思えば、イヤホンでは何を流せばいいのかと、結局どうしたかわからないけれど、気づいたら家にいて、とりあえず酒を飲むべきなんだろうなって酒を飲んだ。

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あれから3年経ったのか、と東京に来てからの年数ですぐ導き出す。

それからの日々は、強引にでも紡いだ。既に自分は崩れかけていたようにも思うけれど、怖かったのだ。エネルギーを感じていたということ自体が、自分が彼の生命力を奪ってしまったのじゃないかと。だとしたら、失敗は出来ない。

音楽に頼ることもなくなった。エネルギーはある筈だ。音楽は人の心を動かすから、科学技術で記録しても効果があるって『Dr.STONE』で言ってた。

それでも、もうこの、生命力の塊のような声を発する人は、この世界を去ってしまったのだと思うと、どの面下げて聞けばいいのかわからなかった。ボーカルが去っても活動を続けるだとか、色々と続報を聞いても、でも彼の独りアトリエはもうここにないじゃないかとしか思えなかった。

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酔いを回してたら日付を跨いでしまいそうだ。まだ4/5を続けさせてくれ。

それでも人生は続くし、続けなければならないし、他者を抜きにして自分の人生は勝手に厄介事とかで膨らみ続ける。全く関係なく自殺未遂をしてみたり、これは別の記事に書くけれど、ツインレイとの出逢いがあった。

ツインレイとの出逢いにより、スピリチュアルを受け入れるきっかけが出来たのだけど、その頃にYouTube等のオラクルカードのリーディングを見ていた。めっちゃ当たるなと半信半疑で見ながら、その中に受け入れると決めた決定打があったのだ。

特に占いにもハマっていなかった当時の前に、4月のリーディングがおすすめ出てきた。2020年の3月だった。

私が行うように、カードを複数持っていて、都度占い師の感覚によって何を使うか選ばれる。使われたカードは複数あったけれど、基本的に1種類は1枚だった。

詳細なリーディングは忘れた。ただ飛び込んできたのは、あのアルバムジャケットの瞳が印象的なコヨーテ。

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その後も占い師を選ばず見たけれど、異様な的中率で、それは占い師が当たる当たらないではなく「自分が引き寄せている」と感じた。だから自分がやってみようと思い、一番最初に買ったのは勿論上記のカードだった。

そのカードの枚数は68枚。4月のおススメに出てきて、自分が3択を選択し、その3択の中にコヨーテがいた確率は何パーセントだっただろうか。

それで占ってたら自分でも気持ち悪い位に当たっていったので、どんどんカードを増やして他の占いなんかの勉強や概念や本質を掴んでいった。

、、、それだけなんだけど、どうしても私にはあの目が「最後のエネルギーを哀しみなんかで無駄にするなよ」と訴えているようにしか見えなかった。

私が生にしがみついている理由のひとつでもあるけれど、きっとあちらにはあちらの世界があると思っている。それがどんな捉え方でも、最後はひとつで単純で。

だとしたら、次に同じ世界に行けたなら、2014年のライブの演者と観客じゃなくて、どうか飲み交わす中に私も混ぜてくれたらなと切に思う。

どれだけ生き延びさせて貰ったか、声が聞けなくなって。昔の彼を語る人ばかりで、直前まで叫んでいた彼を語る人が少なかったけれど、技巧より叫びが人生の本質なんだよって少しでも悔しさを伝えたい。

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あー日付跨いじゃった。

彼の近くにいた人たちで、私がずっとすきなアーティストがいるんだけれど、彼らは彼の訃報に「また飲もうねバイバイ!」って感じで、それでもライブの最後に「絶対みんな生きてまた会おうね」って心から笑う。

そんな明るいバンドでもないし、米津さんみたいに追悼の意を示すような長文の寄稿をしていたわけじゃないんだけどね。

生とか死とか、同じ場所に入れないのが悔しいだけで、囚われすぎるのは違うよねってことで、今は彼らと同じ場所を生きてることを喜んで、彼の遺した音楽を聴こうと思う。

もう聴けるようになったよ。やっぱりアルバムだ。

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