恋はホラーである
私は恋が好きだ。恋が好きというより、人に接近するのが好きだ。人と接近しようとすると、イチャイチャすることになりやすい。イチャイチャすることを自然にするために、恋をしていることになっている。
本当に心から相手に惹かれて、相手の考えることや生き方に感動したり共感したりして恋をしてしまうこともあるが、基本的には私はイチャイチャするために恋をしている。
人に接近することは恐ろしいことだ。自分よりたくましい相手にぎゅっと抱きつくと、自分の脆弱な体が恐ろしくなる。自分より小さな相手に抱きつくと、自分が相手を攻撃できる可能性を持つ存在だということにゾッとする。
でも、これらの理由は後付けで、本当は他者という存在が怖いものだということが私の身に刻みつけられているのだと思う。
私の母は、虐待サバイバーだ。子供の頃から家事を丸投げされ、親子喧嘩では刃物が飛び交い、私の母は親戚の家に駆け込むことを繰り返していた。ついでに、借金取りが電話をかけてくる上に、その借金取りが質に入れるために家財を取りに家に来る。そのため、母の実家には一度しか鳴らない電話は取ってはいけないというルールさえあったという。
母方の祖父にはなん度もあったことがある。おしゃべり好きな感じはあったが、どことなく厳めしさを感じる顔立ちだった気がする。
母は、親を反面教師にして、娘である私たちを幸せにしようと努めて理不尽な暴力を振るわないようにしていた。だけど、幼少期には癇癪を起こす姉に向かって怒鳴り物に対して苛立ちを露わにすることがなん度もあった。私の記憶が確かなら、ゴミ箱は蹴られて中身が散乱し、味噌汁用の茶碗が宙へと投げられた。
祖父の激しい怒りの表現方法は、娘である母へと多少受け継がれたように思う。
だから、私は家族といるときも、私には祖先からずっと続く歴史の中で、人間の物理的側面の恐ろしさと密接な人間関係は暴力的になるということを刻みつけられたように感じている。そしてその加害性は私にも受け継がれているし、相手にも同じように暴力の歴史が激しい赤い血として流れているかもしれないと考えるようになった。
私の昔の男友達はみんな親と殴り合いの喧嘩をしていた。あまりにもそういう子が多かったので、私はいまだに男の子というのは家族と殴り合いの喧嘩をする生き物だと思っている節がある。
そして、私の彼氏になった人たちはその中でも激しく殴り合いをしていた人たちだった。その事情を知っていた私は、私もいつか殴られるかもしれないと思った。
殴られるかもしれないほどの親密な関係を築くことは、私のルーツとなった暴力の歴史に接近することだと私は感じている。それは、私にとって近親婚を繰り返す家系図を辿るような甘美でインモラルな遊びだ。
恋愛は、ホラー小説のページを捲るように面白い。ジャンルカテゴリが恋愛もしくはアダルトだと思っていたらホラーに巻き込まれてしまうのは相手には災難だと思うが、自分なりに恋愛物語のキャラクターとしての振る舞いは頑張るから、見逃してほしいものだ。
私は、母が抗い軌道を変えた物語がどの方向へ動くのかが見てみたい
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