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本を読む時、理解できないと思ったことがあるだろう。 私はこのような本に出会うと、敗北感に包まれ、一度目を通した後、いつかは理解する日が来ると信じて本棚に再び差し込む。
読書は分からない。 分かるはずがない。読書はただ受け入れることである。
厳密に言えば、読書は理解ではない。 ただついて行くだけだ。私たちは何かを定義して分類するのが好きで、このような定義と分類は可能性を遮断してしまうこともある。 モーリス·ブランショーは、文学は「正義」ではないと言う。(文学を定義することができないということも、正義になれることは認める)
文学という言葉一つでも無数の理論が出てきて論争をするところで、「作品」は尚更そうであろう。
知識をたくさん積めば、文の核にたどり着くことができるだろうか?
私たちは知っていることがあまりにもなくて、文を理解できないわけではない。むしろ、理解に対するテキストの抵抗は、もともと読書経験に属する。
すべての読書経験は、毎瞬間特有のものであり、テキストは特定の解釈では断言できないというブランショーの言葉は大きな慰めになる。
ここで独特な観点が出てくるが、まさに「テキストの抵抗」だ。 我々がテキストの核心に近づこうとすればするほど、核心から遠ざかるようになる。
評論家たちの鋭い解釈が本当にそのテキストの核心なのか分かる方法はなく、全く違う見解の解釈が出てくる可能性は無限だ。 ブランショーは「理解に対するテキストの抵抗はもともと読書経験に属する」と話す。 それなら私が今まで本を理解できなかった経験は、理解できなかったから読書経験に失敗したのではなく、むしろ本質的な読書経験をしたという話になる。
残念なことに、多くの人がこの落とし穴に落ちる。 小説や詩を、その形式が全く重要ではない心理学、歴史学資料のように読む場合が多い。 たとえ作品の形式に注目したとしても、また形式をある意味、還元してしまう。
ブランショーが文学は意味を持たないと思ったということではない。私たちはテキストを常に解釈できるのではないか。
しかし、いつも文学は、ただ言及すること以上のものだ。
本が難しく感じられる理由は、もしかしたら意味を与えることに失敗したためではないかと考えてみる。 なぜ私たちはテキストをそのまま受け入れることができず、意味を与えたいのだろうか。
実際、情報性の薄い文学を読めばリズム感、色彩、スタイル、仕組みが感じられる。 「どのように/なぜ感じられるのか」と言うと、何とも言えない。 先に羅列したものは言葉の意味とは距離が遠く、体感に近い。 そのため読書は単純に読む経験を越えて「総体的経験」になる。
言語を否定性で理解すれば、情報交換より文学が言語の本質にもっと近い理由が分かる。情報交換は不在を隠すが、文学は私たちが不在を不在として体験しろと要求するためだ。
文学に使われた単語からは、事物の実在だけでなく、単語が指示する概念も否定される。日常での「猫」は猫という観念を意味するだけだが、文学では言葉そのものを意味しないこともある。
テキストが他の言葉の内的繋がりを通じて自分の世界を創造するのであれば、私たちがその世界に入ろうとすればするほど遠ざかるならば、私たちはどうすればいいのか。
私たちは作品が何かを再現し、意味することを望んでいる。 そのため「ここでこのカバンは現代消費社会の空しさを意味する」というような解釈が好きだ。 そう言うことで核心に行けるドアを自ら閉めることになるかもしれない。 もちろん、このようなそれぞれの解釈が永遠に核心に近づくことができないとしても、不要だとは思わない。 しかし、分析して把握しようとする姿勢の代わりに、ありのままテキストを「受け入れる」姿勢で読書をすれば、テキストと世界の間に開いておいた空間にもう一歩近づくことができるのではないか。
「いったい何を言っているの?」という言葉が出てくるのは、テキストを理解できないのは、評論家の解釈の代わりに各々の意味で受け入れるのは、いやその何であれ、失敗した読書はない。 私たちは作品を経験するだけである。
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