『カオスと文学』

「一つの体系を持つこと、それは精神に致命的だ。 いかなる体系も持たないということも致命的だ。 それから二つの要求を撤回させ、両方を同時に受け入れなければならないという必要性が始まる。」
シュレーゲルが哲学に関して話したことは、作文に関しても価値がある。 私たちは決して作家であることがなければ作家になれないのだ。 私たちは作家であると同時に、私たちはもう作家ではない。
モーリス·ブランショー

ブランショーのキーワードは「外の思考」だ。 それがドゥルーズ、デリダ、フーコーのような後輩たちに受け入れられ、解体の哲学に発展する。 哲学に入門する立場では、ドイツの観念論は中にあまりにも執拗に入り込む深さなので、一体何の話なのか分からないし、フランスの解体主義は広範囲なので全く見当がつかないだろう。 その起点となるブランショーは最初から「カオス的作文」について語っている。

体系の慣性を生きている私たち自身がすでに一つの慣性であり体系だ。 作家としての作文も、すでにそれ自体がクリシェだという。 これは出版社と編集の過程を経るとよく見られる問題だ。 原稿を出版社に渡すまで、何度も触れる。 そして最後には出版社で校閲を終えた出版直前の原稿作家がもう一度検討する。 何度も繰り返して見る私の原稿がどれほどうんざりするだろうか。 ところが、この過程で私の習慣的表現が発見される。 文を書いてみると、そういう時がある。 瞬間の感興をどう表現するかを悩むよりは、自分の中で待機している大量の単語を取り出して組み合わせる場合。 感興の効果というより、すでに条件反射である。

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