第117話「他者の課題」
この記事は、大貫智也のサラリーマン時代の話であり、影響を受けた本の内容から考えるシリーズである。
・賞罰教育の影響
・他者の期待を満たすために生きていない
哲人
「あなたは他者の期待を満たすために
生きているのではないし、
わたしも他者の期待を満たすために
生きているのではない。
他者の期待など、満たす必要なんてないのです。」
青年
「い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です。
自分のことだけを考えて
独善的に生きろとおっしゃるのですか?」
哲人
「ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。
『自分が自分のために自分の人生を
生きていないのであれば、
いったい誰が自分のために
生きてくれるだろうか。」と。
あなたは、あなたの人生を生きています。
誰のために生きているのかといえば、
無論あなたのためです。
そしてもし、
自分のために生きていないのだとすれば、
いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。
われわれは、究極的には
『わたし』のことを考えて生きている。
そう考えてはいけない理由はありません。
他者からの承認を求め、
他者からの評価ばかりを
気にしていると、最終的には
他者の人生を生きることになります。」
他者から承認してもらおうとするとき、
ほぼ全ての人は
『他者の期待を満たすこと』を
その手段とします。
適切な行動をとったらほめてもらえる、
という賞罰教育の流れに沿って。
しかし、たとえば仕事の主眼が
『他者からの期待を満たすこと』に
なってしまったら、
その仕事は相当苦しいものになるでしょう。
なぜなら、いつも他者の視線を気にして
他者からの評価に怯え、
自分が『わたし』であることを
抑えているわけですから。
意外に思われるかもしれませんが、
カウンセリングを受けに来られる相談者に
わがままな方はほとんどいません。
むしろ他者の期待、
親や教師の期待に応えようとして
苦しんでいる。
いい意味で自分本位に振舞うことができないわけです。
青年
「じゃあ身勝手になれ、と?」
哲人
「傍若無人に振舞うわけではありません。
ここを理解するには、
アドラー心理学における
『課題の分離』という考え方を
知る必要があります。
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自分は自分。
他人は他人。
他人がどうでもいいというわけではなく、
結局、あらゆることは
自分で決めるしかないってこと。
アドバイスをもらう
自分で調べる
いろんな方法で『正解』らしきものは
見つけることはできる。
しかし、
それを正解にできるかは
自分が決めたかどうかである。
あなたは、自分で決める癖がありますか?
続
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