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ペンテコステ、ペンネ・アラビアータ

 今年の5月19日(日)はペンテコステ礼拝の日だった。ペンテコステの知名度は低い。かなしいほどに低い。短歌の後輩に「ペンテコステって知ってますか?」ときいたら「パスタの名前ですか?」とかえってきた。パスタはフィットチーネですね。いや、ペンネ・アラビアータかもしれない。私はペンテコステの話をしたいのに、トマトソースのパスタが頭から離れなくなってしまった。デザートにパンナコッタも食べたくなってきた。いや違うんだ。ペンテコステ。あなたはミッション系の高校に行っていたと聞いているけど、ああ知らないのか、とすこしかなしくなる。

 ペンテコステである。パスタではない。キリスト教の三大祝祭日の一つだ。クリスマスと、イースターと、ペンテコステ。キリストの生誕を祝うクリスマスは日本でもだいぶ浸透している。化粧品やお菓子はアドベントカレンダーに合せた商品が揃えられていて、アドベント商品を買うと、形式上は主の誕生を待ち望むことになる。

 イースターの方はディズニー・リゾートがウサギの恰好をして卵を探す行事として大衆化してしまった。ほんとうは主の復活を祝う日だけど、祝祭感が共有できればそれでいい気もする。ウサギは多産で、卵は孵化するから、主の復活を連想させるアイテムとしてイースターに関連付けられてきたようだ。彩色を施したイースター・エッグを隠し、子ども達がそれを探す「エッグ・ハント」という遊びも生まれた。

 教会に行くと「ハッピーイースター!」と声を掛け合う。お正月がうれしいようにイースターもうれしい。実際にユダヤ曆では正月に相当するらしい。今年のイースターには青年部のみなさんが教会の食堂のようなスペースに集まって、わいわいがやがやお酒を飲んでいた。私はその隅っこで連載の原稿を書いていた。神学生のクボさんは毎年「イースターで、いいスタート!」と音頭をとっている。イースターの日はどんなギャグでもめでたい。今年もいいスタートであった。

 翻って、ペンテコステの知名度たるや。ペンテコステは聖霊降臨の祝日だ。イースターで復活した主は、40日間弟子とともに過ごしたあと、天に上げられたらしい。そこから10日経った五旬祭の日には、弟子たちに「炎のような舌」に見える聖霊が降臨して、彼らは聖霊に満たされ、「ほかの国々の言葉で話しだした」と使徒言行録には書いてある(2章3-4節)。これを記念した日がペンテコステである。各地に伝道をはじめるきっかけとなった日であり、教会の誕生日とも呼ばれている。ペンテコステには赤い服を着る習慣があると聞いた。けれども主任牧師のコガ先生が赤いネクタイをしめているくらいで、礼拝堂を見渡しても、そんな赤い服を着ている人はいなかったように思う。

 そう、ペンテコステにはキャッチーな風習がないのだ。プレゼントをもらえるクリスマスや、エッグ・ハントをするイースターに対して、ペンテコステはわりあい真面目な日である。メリークリスマス!とは言うし、ハッピーイースター!とも言うのだが、ペンテコステの日にそういった挨拶をした記憶もない。知名度が低いのも宜なるかな。うーむ、仕方ない。

 いつか学生キリスト教友愛会(SCF)の会合で、どうしたらペンテコステの知名度が上がるかという話になったことがあるけれど、その場で特に名案が生まれることはなかった。いま改めて、何かないかと思って八木谷涼子『キリスト教の歳時記:知っておきたい教会の文化』(講談社, 2017)をひらいてみる。この本では西欧にみられる風習が国ごとに挙げられているのだが、それらの風習を眺めても、ほかの2つの祝祭日に比べると少しお祭り感に欠けるように思う。南ドイツなどの風習として、「花や若枝などで飾り立てた「ペンテコステの牡牛」を引き回す」などと書いてあり、ハードな感じだ。特徴的な食べ物も特にない。よってスーパーマーケットの商戦にも利用価値が低い。困った。

 ともあれ深呼吸すると、別に私が困る必要もなかったことに気がつく。実は今年、ペンテコステ礼拝には調子が悪くて参加できず、YouTubeライブの礼拝配信を眺めていたのである。そういう後ろめたさが、ペンテコステの知名度を上げたい気持ちに私を駆り立てていたのだ。ああ主よ、礼拝をすっぽかした罪深い私をお許しください……というのは冗談で、いつか「風邪ひいて礼拝にいけないのは罪深いことですか」と、説教で回心によく言及する副牧師のムネミツ先生にたずねたことがあるのだが、ムネミツ先生は「いや、そんなことは……」と笑いながら返答してくれた。ユーモアのわかる老紳士で助かります。私の通っている教会はかなりゆるい。ゆるいから通っていられる。次の礼拝にはちゃんと出ようと思う。

 ペンテコステの中核には使徒たちが「ほかの国々の言葉で話しだした」ことがある。私はさっきからずっとほかの国々の料理が食べたい。具体的にはペンネ・アラビアータが食べたい。唐辛子とトマトの香りが頭の中で炎のように渦巻いている……。思わず舌なめずりをするのだが、目の前にあるのは聖書である。明日のお昼はイタリアンのお店にしよう。

 ちなみに真面目な話をすると、使徒言行録の前半は他国の言語・文化に融和的な態度を示す場面が繰り返し登場する。旧約聖書の律法に基づく厳しい食物規定やその他の文化を他国の人々に強制せず、キリスト教の中心的教義である主の復活を述べ伝えることが使徒たちに与えられた使命であったからだ。おかげさまで受洗しても食生活を変える必要はなかった。

 けれども同時に、キリスト教には苛烈な改宗を強いてきた歴史も、土着の文化を破壊してきた歴史もある。伝道の情熱は危うい。もちろん富への欲求もあったかもしれないが、そうした欲求を覆い隠す建前として聖書が使われてきたことを忘れないようにしたい。炎のような舌が再び国を焼くことを私は望まない。

 私は去年のクリスマスに洗礼を受けたばかりだ。教会で語られるキリスト教の倫理に共鳴したからである。クリスマスからキリストの昇天記念日までの期間はキリストの半年、それを除いた期間は教会の半年と呼ばれるらしい。実際には5ヶ月と7ヶ月なのだが、細かいことはおいておこう。いずれにせよ、洗礼を受けてからの日々を振り返るにはある程度の時間が経った。

 今年のペンテコステ礼拝の説教では、牧師のコガ先生が対話について話していた。使徒言行録のこの箇所から、ハーバーマスの公共圏の理想を想起させる対話について語ること、そしてそれを受け入れる教会の倫理に私は同意している。しかし、例えば、大統領が聖書に手を置いて宣誓する大国のふるまいは倫理的と言いがたい。こうした葛藤に引き裂かれながら、私はキリストの半年を過ごしてきたように思う。一朝一夕に答えが出ることでもなく、きっと一生をかけてこの葛藤と向き合うことになるのだろう。それでも私はキリスト教を信じたいから洗礼を受けたのだ。もしも聖霊が私に降ってきたとき、私の舌は何を語るのだろうか。

聖霊の舌があかあかと迫りなば 迫りなば とぞ、言葉に飢ゆる

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歌人でカトリックの信徒であることを公にしている大口玲子さん(竹柏会の先輩)は、ペンテコステの日にこのような短歌日記を書かれています。
私はプロテスタントの日本基督教団の教会に通っています。

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