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礼拝堂にピーヤと響く

 教会の朝は早い……のだが、私の朝はそんなに早くない。教会の方は主に小中学生が集まる第一礼拝が朝9時から開催されるので、司会や奏楽や礼拝堂の準備を担っている教会員は8時半ごろには集まっているらしい。かたや私は10時半くらいにもぞもぞ起きて、11時からの第二礼拝に向かう。こちらは高校生以上の大人が参加するものだ。学問上の師匠もそこそこ不真面目なクリスチャンであるが、弟子の私もそれに似たのである。というのは冗談で、私は大学で師匠に会う前から朝には弱かった。師匠のマニュエル・ヤンの話はまたの機会にしたいと思う。

 子ども向けの第一礼拝と大人向けの第二礼拝は説教の内容が異なる。日曜の昼から予定があるときなどは前者にも出ることがある。ここでは集中力の持続しない子どもが興味を持ちやすいように、牧師のコガ先生がいろいろな問いかけをする。扱う題材も子ども向けだ。こないだはNHK教育テレビの代表的子ども向け番組である「おかあさんといっしょ」に登場した「たのしいね」という曲を扱いつつ、キリスト教の友愛をテーマにしていた。「ぐーっとすてきな音がする♪」と歌うあの曲である。「あなた」と「わたし」の手を合せたり、声を合せたりすることが歌われるから、友愛という抽象概念が身体的な動作に落とし込まれていてわかりやすい。また使用する讃美歌集も子ども向けに編纂された『こどもさんびか』である。

 大人向けの第二礼拝は当然ながら真面目な話が多い。のだが、たまに不思議な回もある。先に2月末の礼拝では、「比止(ピーヤ)の心で」という題でコガ先生が説教をしていた。中国語だろうか。あるいは漢籍を出典とするものだろうか、などと静かに話を聴いていたら、お笑い芸人の小島よしおのネタであった。笑ってはいけない。なんのギャグだろう。
 コガ先生は丁寧だから小島よしおがどんな芸人なのかも説明してくれる。そっちの方は知ってます。この説教はなんのギャグなんですか。という心の声は当然届かない。グレーのスーツにネクタイを締めたスキンヘッドの初老の紳士が、「地面を激しく突く動きを繰り返し、おっぱっぴーと決めポーズをするギャグで一世を風靡した」芸人として小島よしおを紹介しているのを眺めていると、しかもほとんど手振りを交えずに訥々と語るものであるから、あっけにとられてしまう。笑ってはいけない……。礼拝堂には笑いを抑える音が満ちていた。

 しばらく聴いていると、小島よしおは、口癖のように用いる「ピーヤ」というギャグ用の効果音が、「比止」と表記でき、「比べるのを止める」意味を持たせられることに気づいて、自分らしく生きることを奨励するのに用いているという話がはじまった。なんだギャグではなかったのか。すこし期待していた自分が恥ずかしい。ここからエフェソの信徒への手紙の話に繋げるのだから、牧師というものは話が上手い。

 エフェソの信徒への手紙のような聖書箇所は、キリスト教に親しんでいない人にあまり知られていない。聖書が旧約聖書と新約聖書に分けられるのはほとんど常識であるが、新約聖書の方はさらに4つに分割できる。主イエスの伝道と生涯を描いた福音書、弟子たちの伝道を描いた使徒言行録、弟子たちが各地に宛てて書いたとされる手紙、そして世界の終わりを語る黙示録である。なぜ私的な文書である手紙が聖書に収録されているかというと、福音書と使徒言行録が成立するまで、キリスト教の核心的教義を伝えた文書がなかったからである。弟子たちが見聞きしたイエスの半生は口伝で伝えられていたらしい。それに手紙にはキリスト教の信仰で一番大切な部分が抜粋されている。私は不真面目だから、基本的に聖書の手紙などは説教くさくて好かないのであるが、よくよく探すとかっこいい格言も含まれていて捨て置けない。
 説教で引用されていたのは、以下の箇所であった。

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

-エフェソの信徒への手紙2章10節

 この箇所は創世記の人間創造のエピソードと同じく、人間が神の被造物であることを語る。私たち一人一人は神に創造された作品であるのだから、比べるのをやめて生きることが必要であると、説教はまとめられていた。

 私は不真面目な上にひねくれてもいるから、こういう良い話はいったん拒絶したくなってしまう。私が神の作品ならば、もう少しマシに作ってくれてもよかったのではないかとも思うし、あろうことか、他人の方ももう少しマシに作ってくれてほしかったと思う。そうすれば余計な害を被ることもなかったろうに。さっそくピーヤができていない。人間だもの。けれどもキリスト教の世界観では、この世全ての善悪は最終的に神の国を実現するために用意されたものであると説明される。その上で主のみ心に従って生きることが要請される。

 私が洗礼を受けたのは倫理の指針を得るためで、主のみ心にかなう生き方を目指すことにことさら異存はない。しかしそれと、礼拝における説教にすぐ同意できるかは全く別の問題である。一人一人が神の作品であると捉えることは、確かに人間の生に最終的な防波堤として意味を与えるし、友愛として他者を尊重することにも繋がるだろう。
 けれども、私には野心がある。現状に満足したり、自分自身の才覚を見限りたくはない。また、自分と他人を比べるだけではなく、他人同士を比べることもまた問題となる。批評をやっていると、どうしても、ある作品と別の作品のどちらがより優れているのか、比較し、決めなければならない。その集積が歌人や作家の評価を決定する。まったく殺生な営為である。
 どうやら最終的に問題となるのは、手紙にある「善い業」をどのように目指すかであるようだ。今回の説教は、自分と他人と比べて自信を喪失してはならないと捉えるのが妥当かも知れない。礼拝に行くとたびたびに心が騒ぐ。礼拝の場は信仰を試される場でもある。そうやって内省し、心を折り返し、信仰を鍛えるほかないのだろう。ただ、そうした問いを認めて、内省の機会を与えてくれる人に出会えたのは、天の配剤であったように思う。

礼拝は幾度心を折りかへし折りかへしつつ生を問ふかな

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