生きるということ

そして私は転がっていく。

夜勤バイトが終わり、始発まで1時間ほどあったので歩いてきた。乗りたい電車には余裕で乗れたし、雨も降っていて非常に気分が良い(私は晴れより雨の方が好きだ)。
気圧の気だるさも散歩によって解消されている、運動とは良いものだ。

荒川だか江戸川だか分からない(さして重要ではない)が大きい橋を渡っている時、二股に別れた川の上に建っている無機質なビルディングの群れが霧雨に包まれている光景があり、右手には遠くにスカイツリーが見えた。歩いている途中に大きな神社があったので参拝もしてきた。実に楽しい夜明けの散歩であった。

歩きながら書く内容を決めようと思っていたのだが何だかとても散歩が楽しくてすっかり決めるのを忘れていた。だがまぁ散歩の時くらい頭の中でごちゃごちゃしているのも勿体無い。たまには頭の中をカラッポにするのもいいじゃあないか。

いやはやしかし困ったものである。題名を「生きるということ」と勢いで書いたはいいが、なんだか今日はうだうだ屁理屈を言う気分じゃなくなってしまった。かと言ってこのまま、じゃァ今日は解散!お開き!さようなら!というのも締りが悪くて気分が良くない。どうしたものか。

私の経験からくる「人生」ではなくこれから先の未来について書いてみることにした。

人生山あり谷ありモハメド・アリに三つの坂と袋もあるらしい。最後のは結婚だったか。しかし結婚を人生の墓場という人もいるので人生のようなものだろう。私はそうは思わないが。

私のこれからはどうなっていくのであろうか。私には今のところ人生の目標を達成する事よりも大切なものも大事な人もいない。とりあえず一人で生きていけるように生活力を身につけているが、それをすることによって尚更一人になる気もする。まぁそのうちどうにかなるだろう。
そう、そのうちどうにかなるのである。物事はなるようにしかならないし、結果には必ず原因がある。むしろ私の終着点は生まれた時から決められているのかもしれない。生物に生まれたからには死ぬという終着点があるなァ、と改めてぼんやり考えている。

私は今(正確には昨日から)、生きているという考え方ではなく、「私」という作品を作っていると考え始めた。これがまた恐ろしくしっくり来た。
ここ最近、私は生きようとしていたのではなく、生き延びようとしていた。別に生きていたい訳では無いが死ぬのがいやで、貧しく寂しい生活をするのが嫌で先の見えない明日に怯えながら生活をしていた。これがまたつまらない。つまらなすぎてなんの引っ掛かりもなく日々が素通りしていった。
しかし、「私」を作る、と考えるとなんだかよく分からないが、起こりうる全ての事象と生活が全て自分の一部になっていくのだ。これは大きな発見である。もう他人の過失が原因の死以外はどんとこいだ。私は今無敵である。戦う相手もいないので敵もなし。
死ぬのも勿体無いと思い始めた。私を作り上げる上で死はおそらく一番大事なものである。私の人生は劇的でロマンチックな死を迎える事で初めて作品として出来上がるのだ。そしたらもう死にたいなんて言ってる暇はない、全ての経験がスタートラインにも立っておらず他人の記憶にも残らなさそうな中途半端な人間でいるわけにはいかないのだ、全ての人間に爪痕を残し、私の葬式は涙で式場が水浸しになるか宴会が開かれるか生前の恨み言が怒号混じりに乱れ飛ぶようなものであって欲しいのだ。ちなみに、私は自分の葬式が宴会並の盛り上がりになってくれるのが一番嬉しいが、そこに私はいないと思うと歯痒い。死ぬという事はそういう事なのだな。

私は、私になるために、生きていくことを決めた。

さて、一段落した。
昨日の文章を恐らく10回は読んだが、途中で論点がズレているわ誤字脱字が酷いわ言葉の使い方を間違えている気がするわで酷いものである。まぁ仕方ない。次から気をつけよう、と思った訳だが、早速ルールを追加しようと思う。

ルール六
記事を上げた後、誤字脱字があっても修正してはならない。

ルール七
執筆中、一文を丸々消してはならない。

というものだ。もはやこれは縛りプレイであるが自分の出した言葉に責任をもち、緊張感を持ったまま書き上げる為のものである。

しかしこれもなかなか楽しい。
明日は何について書こうとワクワクするのだが大体考えてる間に忘れてしまう。私の思考は転がり続かるのだ。

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