風に恋う帯無し

風に恋う|第1章|13

---

 練習に集中しているうちに、気がついたら五時半近くになっていた。そろそろ合奏が始まる時間だ。楽器を抱えて第一音楽室に戻ると、瑛太郎がすでに指揮台の上に置かれたパイプ椅子に腰掛けていた。膝に頰杖をついて、ぼんやりとスコアを眺めている。

 すべてのパートが集まったタイミングで、普段だったら玲於奈が号令をかける。ところが、それより早く瑛太郎が立ち上がった。

「ちょっと教えてくれないか」

「一音入魂! 目指せ! 全日本吹奏楽コンクール」という部の目標を、指さす。

「目指せ全日本、というのはわかる。でも、君等にとっての一音入魂って何だ?」

 六十四人の部員を見回して、瑛太郎は言う。

「別に、全員揃って同じ答えを言えというわけじゃない。それぞれがそれぞれの込めるべき魂を持って演奏してるなら、それでいい」

 それが感じられないから、今話してるんだけどな。瑛太郎の顔にはそんな本音が書いてある。
 膝にやっていた手を、基は握り締めた。

「君等は、自分の頭の中に『こんな風に演奏したい』という理想はあるか。自分の音と理想を比べて、足りない部分を修正する作業を今日したか? これから始まる合奏に間に合わせるために必死になったか?」

 瑛太郎の言い方は、決してこちらを詰問するようなものではなかった。お説教されているわけでもない。強いて言うなら――ソロパートを吹いているようだった。

「全日本に出たいという目標は素晴らしいが、君達には目標があっても理想がない。闇雲に目標を追いかけて、追いかけることがマンネリ化して、モチベーションが下がってる」

 誰も何も言わなかった。音楽室ごと、海の底にでも沈められた気分だ。音がしない。シンとした緊張感の中、誰もが瑛太郎を見ていた。みんな、心の底では同じように思っていたのだろう。面白いくらい綺麗に、言い当てられた。

「俺は三好先生から『吹奏楽部を何とかしてほしい』と言われた。それに、このまま低迷し続ければ、部も今まで通りに活動できないだろう」

 最前列で、玲於奈がすっと手を挙げた。瑛太郎以外、誰も口を利かなかった音楽室に、「先生」という凜とした声が響く。

「今まで通りに活動できないって、どういう意味ですか」

「吹奏楽部は学院の強化指定部になってる。例えば第一音楽室は実質うちの専用練習場で、授業で使うのは隣の第二音楽室のみ。予算だって他の部より多い。コンクールの遠征費や楽器を買う予算は、部費だけじゃ賄えない。学院に実績が認められて、頑張れと言ってもらえているから、君達はこうやって活動できている」

「じゃあ、全日本に出られなかったら強化指定部から外れるってことですか?」

 玲於奈が続けてそう聞くと、瑛太郎ははっきりと頷いた。

「六年だ。もう六年、千学は全日本に出ていない。それが長いか短いかは俺が判断することじゃない。ただ学院は《長い》と判断した。三好先生も体調が優れないし、顧問を替えて、今後はコンクールに出場しない方針になるかもしれない。それなら朝から晩まで練習する必要もないし、君達は勉強に専念できる。大学合格実績が上がって学院は万々歳。吹奏楽部が使っていた予算を、活躍している他の部に回すこともできる」

 瑛太郎は《かもしれない》と言った。でも、仮定の話だと受け取った人間はいないだろう。

「というわけで、俺はコーチとして君達を全日本に連れて行かないといけない。君達もこの通り全日本を目標としてる。目標は一致してるわけだ。お互い頑張ろうじゃないか」

 やっと瑛太郎の口元が笑った。とてもじゃないが、基は頰を緩めることができなかった。

「一ヶ月考えたんだが、まずは一度、この部をぶっ壊すところから始めようと決めた」

 突然、瑛太郎が指揮者用の譜面台に置いてあった指揮棒を取った。条件反射で首から提げたアルトサックスに手をやってしまう。

 その白く鋭い切っ先は、何かの輪郭をなぞるようにして空を搔き――基を差した。

「手始めに、部長を一年の茶園基に替える」

 瑛太郎の声は、時を止める魔法をまとっていた。静まりかえった音楽室で、基は気がついたら立ち上がっていた。

 サックスのベルが譜面台に当たり、倒れる。音を立てて楽譜が周辺に散らばった。

「茶園」

 呼ばないでくれ。頼むから、いつか僕を魅了した声で、僕の名前を呼ばないでくれ。

「一緒に全日本吹奏楽コンクールに行く部を作ろうか」

 今度こそ、瑛太郎が笑った。目の奥をきらりと光らせて、彼が高校三年生のときのように。全日本吹奏楽コンクールに出場したときのように。

「はい」

 口が勝手に動いた。
 音楽室がどよめく。玲於奈が静かに振り返り、瞳を揺らして、基を凝視していた。

---

*この続きは『風に恋う』(額賀澪/文藝春秋)にてお楽しみください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?