風に恋う|第1章|09
2|激流の先へ
「もう早起きからは解放されると思ってたのになあ……」
トーストを囓ろうと大口を開けた瞬間にそんなことを言われ、基はそのまま固まった。台所に立って基の弁当を作っている母の背中を見つめる。
「五時起きの生活ももう終わりだと期待してたのに」
「す、すみませんでした……」
中学三年間、母は毎朝五時に起き、朝練のために六時半に家を出る基の朝食の準備をした。土日も朝から夕方まで練習があって、弁当を作ってもらった。それが中学三年間、お盆と年末年始の数日を除いて、ほとんど毎日続いた。
「大体あんた、高校は勉強に集中するから吹奏楽はやめるって言ってたのに」
「やっぱり吹奏楽部に入りたいです」と両親に頼み込んで入部届に判を押してもらってからひと月以上たち、五月の連休も明けた。この話をされるのは、一体何度目だろう。
だって、全日本吹奏楽コンクールで金賞を受賞した時代の部長・不破瑛太郎がコーチをするんだから。そりゃあ、入部するだろう。
「中学とは違うってわかってるからさ。勉強もちゃんとやるし……」
「当然よ。高校受験と違って、大学受験は人生かかってるんだから。中学みたいに部活やってたら、絶対後悔するから。玲於奈ちゃんのお母さんも大変みたいだし」
トーストを口に詰め込み、基は頷く。母は、本当は吹奏楽部に入ってほしくなかったのだ。口うるさい教育ママにはなりたくないから、許可はしてくれたけれど。最近、毎日のようにピリピリとしているのは、きっとそのせいだ。
階段を下りてくる足音がして、白いブラウスと紺色のパンツを穿いた姉の里央が現れた。洗面所に駆け込んだと思ったら、あっという間に化粧をして戻ってくる。
「里央、トースト何枚食べる? 一枚でいい?」
「いらない」
母の声に素っ気なく応え、そのままリビングダイニングを通り過ぎて玄関へと向かう。
「姉ちゃん、もう会社行くの?」
「早めに行って仕事したいから」
振り返らず、里央は玄関の方へ消える。トーストの耳を口に詰め込んで基も席を立った。
「基、これ、里央の口に放り込んで」
母が生の食パンにジャムを塗りたくって半分に折り、基に渡してくる。「りょーかい!」と預かって、弁当をリュックサックに入れて家を飛び出した。
「姉ちゃん!」
ハイヒールを履いた里央にはすぐに追いついた。食パンを差し出すと、ほんのちょっと鬱陶しそうな顔をされたけれど、ちゃんと受け取ってくれた。
「仕事が始まるのって、九時半からじゃないの?」
七歳年の離れている姉の里央はこの春大学を卒業し、都内にある大手広告代理店に就職した。働き始めてまだ一ヶ月程度だというのに、朝家を出る時間はどんどん早くなり、帰宅時間はどんどん遅くなっている。時刻はまだ六時半。会社まで一時間ほどで着くのに、もう出勤だ。終電で帰って来た日もあったし、連休中だって何日か出勤していた。
父も母も「新人のうちは仕方がない」と言いながら、内心は心配しているはずだ。
「朝ご飯くらい食べて行けばいいのに」
そう言ったら、里央が食パンを囓りながら睨んできた。
「高校生のあんたにはわかんないよ」
駅までたいして話すことなく歩き、同じ電車に乗った。里央より先に下車して駅を出ると、後ろから軽快な足音が近づいてきて、「おはよ!」と背中を叩かれた。
「一緒の電車だったね」
深い紺色のプリーツスカートと二つ縛りの髪を揺らし、玲於奈が基の隣に並ぶ。
「声かけてくれればよかったのに」
「だって、里央ちゃんと話してたから。しかも里央ちゃん、機嫌悪いみたいだったし」
玲於奈の家は基の家と生け垣を挟んで目と鼻の先にある。登校ルートは完全に一緒だ。
「仕事が忙しいんだよ」
「痩せちゃったよねえ、里央ちゃん。初詣で会ったときはもっと健康そうだったのに」
「新しい環境に慣れたら、少しは楽になるんじゃないかな」
「新入部員が生意気なこと言うじゃない」
けらけらと笑う玲於奈は、里央と反対で機嫌がいい。吹奏楽部に新入部員が多く入り、しかもコーチとして不破瑛太郎がやって来て、ひと月。部は調子づいていた。
「ねえ、基」
口元に笑みを浮かべたまま、玲於奈は基を見た。
「今年は絶対行けるよ、全日本」
「まだ演奏する曲すら決まってないじゃん」
玲於奈がはしゃいでいるのが、声からよくわかる。
「だって凄くない? 全日本のステージに立った人がコーチに来てくれたんだよ? 親の反対押し切って部長になった甲斐があるってもんでしょ」
《部長》という言葉を愛おしそうに口にした玲於奈の足取りは、軽い。
正門をくぐって真っ直ぐ第一音楽室まで行くと、窓際で堂林がすでに練習していた。一つの音をメトロノームに合わせて丹念に伸ばし、一つ高い音、また一つ高い音へ。地味な基礎練習をひたすら繰り返している。
朝の自主練に来ていた部員は十人ちょっとだった。吹奏楽部は総勢六十四名だから、朝練に参加しているのは二割程度だ。その上、楽器の音よりお喋りの声の方が多く聞こえる先輩もいた。
黒板の横に貼られた模造紙には「一音入魂! 目指せ! 全日本吹奏楽コンクール」という部の目標が書いてある。
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