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誰のために書くのかって話

こんばんは。6月から社内SEになるSHUNSUKE.Gです。
ここ数日の東京は丁度いい気候で過ごしやすいのに、緊急事態はまだ続くらしい。とうに諦めた入社までの贅沢な海外旅行。それどころか一人で黙々と泳げる近くの温水プールも期間中休業になってしまった。
でも勉強ができるし音楽も聞けるしゲームもやれるし、部屋は静かだし、コロナ前に満員電車で通勤していた頃よりずっと幸福な生活だ。一年以上のテレワークも全く飽きなかったし、俺もみんなと同じように一人が好きなんだ。
こんなとき球技大会になんて行きたくなかった学生時代を思い出す。あのときの、したくないことを強制されるときのやりきれない気持ちや、強制する側の持つ異様な確信に対するあきらめを「自粛疲れ」でストレスを溜める側になった彼らの大多数は理解していないようだ。被害者ぶるのも幸福のひとつだ。

誰のために書いていくのかが難しい

noteを更新するのは難しい。書くというのは俺の脳が思い出したことを書くかぎりにおいて明確なアウトプット行為だが、一体誰のために書いているのか。
みんなのために「役に立つ記事」を書くのは悪くないが、生活から役に立つことが毎週浮かんでくるかどうかは非常に疑わしいし
読み手としては、実務書を読んでその章のいくつかをコピペしたお役立ちライフハックを量産するなら、おおもとの本を紹介するのが一番のライフハックだからそうしてくれよと思ってきた。
それに悲しいことに自分の頭の整理がてら書いたものを出せるほど高い文章力は、今のところないのだ。

誰に面白いと思ってもらいたい?信者を作ってサロンでもやる?まぁ今どきそんな事考えている奴は知能が足りてない。あるいは岸辺露伴みたいに「ただ読んでもらう」ため?それが自分の嫌いな人でも?
それで自分の知識や生活の何を切り抜いて、整理して、noteに書く?

気遣いせずとも共感してくれる人の為に書きたい

考えた結論として、俺は俺に共感してくれる誰かのため「だけ」に書くという事にした。正直に書くと俺は俺に似ている人が好きだからである。
愛情を除けば、人は自分と同じような存在や自分をわかってくれそうな存在が好きであり、もし自分と違いすぎる人が好きという場合そいつを利用できるから面白くて好きであるにすぎない。
自分と思考回路が全く異なる人間がいたら、その人に対してメリットなしに何かを提供したいと思うのだろうか、俺にはわからない。マザーテレサだろうと毎日インドの民が唾を顔面に吐き続けても救護するモチベがこんこんと湧いたか?

さて「アンダーマイニング効果」という効果がある。
最初は無償でもやる気があった取り組みが、報酬が発生するようになると、もはや報酬なしでは取り組みたくなくなってしまうという恐るべき効果である。
参照:<<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8A%B9%E6%9E%9C>>
(下図はアンダーマイニング効果の恐るべき関連項目)

キャプチャ


noteは金にはならないが、いいねマークはある。俺は単純だからいいねを押されるとその人を好きになってしまうだろう。そしていいねを貰った記事に似た記事を書きたくなってしまうはずだ。
ちまちまnoteを続けようと思っている俺は、最初から俺と同じような誰かが共感してくれることだけを目的に書いていきたい。
俺は関内関外日記のような純粋な日記ものが好きだ。
やはり自分と同じような誰かに思いを伝えたいと思う。皮肉に偏らないように。愛を込めて、差別やLGBTや政治やモテテクに背を向けていきたい。(ただIT技術については少し書くかもしれない)本日は以上です。


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