言葉を憎み、言葉を愛し

不眠症で眠ることができないので、落ち着こうと思って書いた文章。

学生時代、私は言葉を話すことが苦手だった。

理由は色々あるが、一つは吃音症だったことが挙げられる。

吃音症とは、いわゆる「どもり」のこと(どもりは差別用語でもあるので使ってほしい言葉ではない)。
言葉を話す時に同じ音を繰り返したり、「ーーーーっっおはようございます」と無音が続いたり、「あーーーーのさ」みたいに音を伸ばして話すなど、人によって色々ある。あと苦手な行とか(私は母音やカ行、サ行、タ行などが苦手)。

私は音を繰り返すのも多いが、無音が続くことが一番多かった。過去形になっているのは、今はだいぶ回復したから。でも、興奮したり、逆にリラックスしたり、人に相談したり、上手く話そうと緊張したり、駅のホームなどウルサい場所で電話したりなど、あらゆる場所で出ることも未だにある。

吃音でからかわれたり、笑われたり、という記憶は中学時代まではあまりなかった。まあ、何度かはあるが、いじめに発展するほどではなかった。

だが、高校に入り、小学校から中学まで1学年1クラスの同じメンバーと別れて新しい高校生活を送るようになると、若干だが馬鹿にされることもあった。

どもると、男子に「え?今の何?笑」みたいに顔を見合わせられたり、女子に笑われたり、友達だと思っていた人から「それって癖なの?」と不機嫌そうに言われたりもした。

まあでも、それくらいだ。今は治りつつあるのでそこまで気にはしていない。

ちなみに吃音を深く知ったきっかけは、重松清の「青い鳥」や「きよしこ」を中学時代に読んだからである。吃音者でなくとも、読めば心にぐっとくるものがあると思う。

吃音症という障害を知ることができたのは、幸せだと思っている。小学時代に遡るが、国語の授業で上手く朗読が出来ず、担任から、明日もう一度読ませるから練習しといでと言われたことがあった。真面目な私は家で練習した。家では緊張せず言えたので、意気揚々と授業に臨んだのだが、いざ読もうとすると舌がつっかえてしまった。その時の担任の顔。今でも思い出せそうだ。

何でこんなに言葉が上手く言えないのだろうか。友達と会話をしている中で、面白いことを思いついてもタイミングが合わず言えなかったり、人に声をかける時の第一声がまず言えなかったり。何故、皆が普通にできる会話が自分にとってはこんなにも苦しいものなのか。少女の私にとって、それは自分の中で大きな謎だったし、悩みでもあった。

だが、それが一種の「障害」として位置づけられていることを知ってからは、「ああそうか。自分が悪いわけじゃないんだ」とほっとできた部分があった。国語の朗読で、上手く言えなかった私は、悪い生徒だった訳じゃなかったんだ、と。

だから、言葉が上手く話せないかわりに、私はよく詩を書いていた。学校から帰ると、机に向かって、父親の仕事の要らなくなった資料の裏に、詩や自分の思いを殴り書きしていた。

自分を慰める応援だったり、小説だったり、自作のキャラクター同士の会話だったり、ポエムだったり。とにかく、学校で話せない部分を紙に吐き出していた。絵もたまに描いたが、やはり文章が多かった。

それは未だに続いており、携帯のメモには容量がオーバーしそうなほど書いている。事実、ガラケーの時はメモの容量を満杯にした。それほど、溢れる思いが自分の中にはあった(くだらないのも多いが)。

言葉を憎みつつ、言葉の力に励まされ、言葉の残酷さに傷つき、言葉の美しさに涙して。そうして今もこうやって文章を書いている。下手くそではあるが、文章を書くことは、私にとってライフワークの一つであると、最近さらに強くそう思うようになっているのである。

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