3畳部屋で終活したらミニマリストになってた
掃除機入らないね、この部屋。
母から呆れた言葉が返ってきた。
私の部屋はたった3畳。
もともとは倉庫として使われていた。
22歳から一人暮らしを始めて、もう30代の終わりにさしかかろうとしている私は、15年間ものが散乱した部屋に住んでいた。俗に言う「汚部屋」という状態だ。30歳を過ぎ実家に戻っても、部屋の汚さは変わらず。その部屋は狭く散らかりすぎて、掃除機すら入らない。
木のアンティーク調のタンスや戸棚。
白とピンクのツートンカラーのカフェテーブル。
花柄のレースカーテン。
築60年以上の木造住宅を少し改築し、父が自分の自信作のように来客部屋を作ったらしい。
それを私の部屋として使わせてもらえることになった。
全く好みでもない部屋だったが、出戻り娘としては仕方なかった。
自分の部屋を用意してくれるだけで十分だ。
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しかし、部屋が荒れていくのに、そう時間はかからなかった。
アンティーク調のタンスには化粧品のコレクションをパンパンにつめて、戸棚には趣味のカメラ用品を詰め込み、扉は閉まらなくなった。
カフェテーブルは物を積み重ね、模様は見えなくなっていた。
全部好きな物のはずなのに大事に扱っていなかった。
買い物依存で爆買いした洋服は一度着たら、洗濯もせずハンガーにかけるだけ。クリーニング店のハンガーは重みに耐えられず、何度も折れて服が雪崩を起こした。
外ではオシャレなお姉さん気取りをしていたつもりだったが、メイクもどこか雑だったし、バッグの中は汚かったので、多分周囲の人にはバレていたと今となっては思う。
自分の物の管理すらできないだらしない自分。
実家の一室を荒れた部屋にしてしまい、親不孝な娘だと思った。
悲観していたけど、変われなかった。
転機は仕事で追い込まれたこと。
自分には物理的に無理な仕事を強いられ、資格試験を取るように暗に圧力をかけられていた。
厳密に言うと、圧力をかけられていたわけではなく、自分を自分で追いつめていただけだったのかもしれない。資格の受験日は意識もおぼろげで、「なぜ自分はこんなに自分を追い込むのか、完璧になろうと自分を苦しめるのか、そして言われたことを断る強さがないのか」そんな自分に失望して、ぼんやり列車に乗ったことは覚えている。
もともと睡眠障害とうつだったので、心療内科に通院していた。
診察室に入って私は言った。
「もう私には限界です…」
その場で泣き崩れた。涙がポロポロ出てきて、気付けばわんわん泣いていた。
「療養のためにしばらく入院しませんか?」
今でもこの言葉をよく覚えている。むしろ一生忘れないだろう。
なぜなら、私が汚部屋脱出のきっかけになった一言だからだ。
病院の帰り道に思った。
しばらくの間ってどれくらいなんだろう?
1ヶ月?3ヶ月?半年?…ひょっとして1年??
そう考え始めると、気が遠くなった。
自宅に帰って、医師のあの言葉を思い出していた。
もうこの家にいつ帰ってくるか分からない。
退院した後も今の会社で働けるかも分からない。
じゃあ、私のこの持ち物、全部いらないんだ!!
これを読んで、精神やばい人だと分かってもらえたかと思う。
それもそうだ。
入院を勧められるような状態なのだから。
それから45リットルのゴミ袋を抱えて部屋中の物をとにかく詰め込んだ。
倉庫にも私物が散乱していたので、それも詰め込んだ。
不要かどうか、その判断はわずか1秒。
生活に最低限必要なもの以外はほぼゴミ袋行きだ。
壊れた家具は親に謝り、粗大ゴミに出した。
とにかく、がむしゃらだった。
同時に自分の寿命について考えたこともあった。
命に関わる治療のための入院ではなかったけれど、もう長生きしなくていいと思った覚えがある。
自分の今後に絶望し、私は勢いで終活を始めた。
一週間が経過し、医師のところを訪ねた。
「なんかスッキリしたみたいだね。顔色も良くなった。
何か生活で変わったことがあったんですか?
まだ入院しないで様子を見ましょうか?」
え?入院しなくていいの?
身辺整理をしたことは言わなかった。
良かったことなのだろうけど、なんだか拍子抜けした。
自宅に帰ると、たった3畳の部屋が広く見えた。
フローリングを水拭きすると、床が光っていた。
私は世間で言う「終活」をしたのだろうけど、陽のあたる部屋で光った床はとても美しかった。それを見て湧き出た思いは「もっと生きよう」だった。
私の物の手放し方はあまりにもむちゃくちゃだったので、もう少しきちんとした方法を知りたいと思い、片付けや断捨離、シンプルな暮らし…色々な本を読み漁った。
そして、ミニマリストの著書に出会った。
ほとんどの本を電子書籍にしている私が、今でも紙で持っている本。
ミニマリストしぶ氏の「手放す練習」だ。
この本を読み、衝撃を受けた。
これがミニマリストの存在を初めて知った時だった。
それからというもの、本だけではなくSNS媒体でも「ミニマリスト」を調べるようになった。あの潔いミニマリストだけではなく、「ゆるミニマリスト」と称するキラキラした女性たちも見かけた。
気付けばミニマリストの発信者を100人以上見て、自分で独自に「ミニマリスト6分類」を作るようになっていた。
まるでミニマリスト研究家のようになった私は、今度は自分が発信者になった。
その名も「ほどほどミニマリスト」。
世の人が思う、究極に最低限の物で生きるミニマリストでもなく、「ゆるミニマリスト」とも少し違う。
完璧すぎず、自分にとってちょうどいい(=ほどよく)ミニマリスト。
それが終活を経て、ミニマリストを知った私の着地点だったのだ。
また完璧にこなすべきという思いが自分を追いつめてしまったなら。それなら私は完璧で徹底的なミニマリズムを望まない。
少ないもので暮らすようになって、たった3畳の元倉庫だった自分の部屋を見て思った。
せっかく片付けたのだから、自分のお気に入りだけにしたい!
自分の部屋を整える作業は半年以上かかった。
カウンターテーブルに置いた観葉植物・パキラとエバーフレッシュは、この小さな部屋を彩るシンボルになっている。
とても華やかという暮らしではないけれど、もしかしたら人生で今が一番幸せなのかもしれない。
小さくて狭くて古くて……条件は決して良くないこの部屋。
それでも自分のお気に入りだけを持ち、お気に入りの空間を作り上げた。
あの時、もし終活をすることもなく医師の最初の言葉通り、入院していたら私にこんな人生は訪れていなかった。
その後、たった3畳のこの部屋をSNSで投稿したところ、大きな反響があった。3畳の部屋を整えるショート動画の再生回数はどんどん伸びていき、500万回再生を超えた。
「私はたった3畳の、元倉庫で過ごすミニマリスト」
このキャッチコピーのようなフレーズは相当のインパクトだったらしい。
今や私は発信者として交流会に参加したり、
他の発信者とのつながりを増やし全国を動き回っている。
あれほど人見知りで内向的だった私がこうなった。
仕事でも自分の意見を落ち着いて言えるようになった。できないことはできないと理論的に説明し、断れる働き方をしている。
ミニマリズムと出会って、自分の大切な物・必要な物を考える習慣を続けるのは私にとって一種の自己分析だったのだろう。
自分は精神状態が安定していると、いたって理論的な考えをするタイプなのだと知ることもできた。正論を振りかざし、人を脅かす相手にもあらかじめ用意していた理論で向き合うことができる。
昔はとにかく強い人やかっこいい人に憧れた。今は典型的な強い人ではないけれど、無理に強がっていた自分よりよっぽど強さを身につけてきたと感じている。落ち込むことや精神的に追い込まれることが以前の10分の1以下になったような気がする。
「ものを減らしたら人生が変わる」と空っぽの部屋を見せるような発信をするつもりはないが、私がどん底からここまで這い上がることができたのは事実だ。
家で過ごす自分も外で過ごす自分も好きになった。
「この人生、そんな悪くないんじゃない?」
けらけら笑いながら、この話を親しい知人に話す自分が想像に容易い。
ものを減らして、ミニマリズムを知り、この人生は変わった。
もう生きているのが嫌だと思わない。私はもっと長く生きたい。
2024年7月
ほどほどミニマリストぬいげつ
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