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舌が覚えている

「舌を濡らした強烈なうまみ」という一文を読んだ瞬間、口のなかに唾液があふれてきた。そのうまみには覚えがある。いますぐにでもそのうまみをもう一度味わいたい。スーパーで売っているのか考えてみたけれど陳列されている様子はあまり浮かばない。店に食べに行くにしてもこのメニューが出てくるのは寿司屋や居酒屋で、ただでさえまったく飲めないうえに当時は一度目の緊急事態宣言のまっただなかで飲食店に行くのは憚られた。となれば自分でつくるしかない。しかしどうやってつくるのだろう、そもそも自分でつくれるものなのだろうか。若干の面倒くささも感じつつ検索してみると想像していたよりもシンプルな材料と工程が出てきて、これならいける!とうれしくなり、早速材料を買いにスーパーに向かい、意気揚々と鯵の三枚おろしを買った。
 鯵の身を細かく刻み、同じく細かく刻んだ薬味と一緒に叩く。醤油と味噌を加えて混ぜれば、あっという間にそれは完成した。
 どうせ自分しか食べないからと、できたてのそれを指で摘んで口に入れてみた。うっっっっっま! え、待ってうっま!! あの一文どおりだ。醤油と味噌の濃い味にガツンとくる薬味たち、鯵の脂? のうまみ? なんかよく分かんないけどとにかくめちゃくちゃおいしい! 最高だ!! 炊きたてのごはんと一緒に食べると幸福度がすごい。レシピサイトではお茶漬けもすすめていたのだけどお茶漬けにする前に食べきってしまった。火も使わず、刻んだり叩いたりするだけでこんなおいしいものがつくれるなんて知らなかった。
 こうして私の貧弱なレパートリーに「鯵のなめろう」といういかついメニューが加わった。

 私をなめろうづくりへと駆り立てたのは『やがて海へと届く』という本の一文だった。昨年頭に出合い、強く心を掴まれた大切な一冊で、折に触れてはこの本を読んで前を向く力をもらっている。いまでもあの一文を読むとじんわりと唾液が増えてなめろうが食べたくなるのだけど、実際なめろうの表現がストーリーのなかで重要な役割を果たしているかと言われると難しいところだ。ただ、なめろうの味は文中で喜びの記憶として描かれていて、確かに私もなめろうの味を思い出したときはとても幸せになった。おいしかったなぁって記憶は強い。きっとこの先もなめろうの味を思い出すたび幸せな気持ちになるはずだ。

 そこまで考えてふと思った。私はいつなめろうを食べたのだろう。実家は両親ともに酒を飲まないのでそういった酒の肴的なメニューはほとんど出たことがなく、母もなめろうはつくったことがないと言っていた。寿司屋や海鮮系の居酒屋に行ってもなめろうを頼んだ記憶はない。あのとき私の頭によみがえったなめろうの記憶はいったい何だったのだろう。
 思い出したくなって、文庫本を手にとった。あの一文を読めば思い出せるんじゃないかと期待を抱いて、読みすぎてくせのついたページを開いてみる。少し前の行から読んでハッとした。


 アジじゃなくてイワシだ、このなめろう。
 鰯って書いてある。ルビまで振ってある。


 ……鯵と鰯を見間違えるようなやつの記憶なんてどうせ曖昧だからきっと覚えていないだけでどこかで食べたんだろうしもしかしたら醤油と味噌っていう表現だけでうまそう! うまみ! って思って食べたことある気になったのかもしれないもう自分を信じられないし信じたくないしそれでも私の舌はなめろうを求めているしなめろうはおいしいしそれはたとえ鯵でもだし『やがて海へと届く』は最高。

 鰯買ってこよ〜っと。