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パリの浮世絵

 どうしておまえ達は結婚しないのか?

 異性に魅力を感じないのであればいざ知らず。

 お互い好き合うて夫婦同然の仲になっても、依然として私に結婚の誓いを立てようとはしない。

 そうかおまえ達はただの犬猫か?それとも背徳者の一味であるのか?

 馬鹿が馬鹿をあざむき合う。そんなことは鄙(ひな)ならではの三文芝居。得意になっているおまえ達よ、側に寄れ。我が宮で永遠にそれを続けてみよ。

 その時にはもう私はそこにはいない。

 優美なる翼を毛づくろいしては、永遠に飛び立ってしまう。

 そしておまえ達は舞台の上でいっしょくた、ごった返した中でお互いが腐敗しきった形(なり)を晒しながら、犯し合っては品を作る芝居を永遠に繰り返す。

 もはやおまえ達は宮廷の作法通り、その宮の主人であるこの私の允許(いんきょ)を受けずに、その醜い芝居を取り止めることが叶わない。

 私の威令はふらつかない。

 おまえ達はそこで永遠に芝居を続けるのだ。

 どんなに正気に立ち返っても、おまえ達はもはやそれから目を逸らす動機に取りつく島がないのである。

 かつて私の御稜威(みいつ)を疑った者達、我こそはと思い上がって無軌道に走った者達、みずからその呪縛を解いてみよ。

 どんなに私に従うことが身のためであるのか今にして分かっても、後の祭りである。

 私にしろおまえ達の今の醜態は目を覆いたくなるほど嫌なものである。

 それを直視せねばならぬとは、おまえ達こそ本当に哀れな者達であることよ。

 けれども私はもうおまえ達を救うことはないのである。

 私の威令はふらつかない。

 私は自分に臣従する眷属(けんぞく)どもを伴って、永遠の旅路につくのである。

 おまえ達とはもう生き方を異にするのである。

 私に従う者どもの無限の喜びをおまえ達は永遠に知るまい。


 時におまえ達の中ですでに子を為してしまた慮外者がおる。

 自分らの一時(いっとき)の悦楽のために、新たに生まれ出づるべき私の子供の地上における出生を殆(あや)ういものにしてしまったおまえどもは犬猫と同じにして、彼らが担うことのない罪科(つみとが)をその身に引き受けねばならぬであろう。

 私は、私の子供達が地上において、彼らの肉体的な両親がお互い愛と信頼の契約を取り交わしたのちその間に出で来ることを、強く望むものである。

 それは、私の子供達が地上において、愛を円満にその両親から引き受けることが、そのように武骨な土地柄で彼らがなんとか生き抜けるためには必要であると、私が捉えているからこそである。

 私が雲隠れする間彼らの本当の命を点すのは、彼らの両親の子供に対する愛の結合以外に何がふさわしいというのであろうか?

 私はほかを誂(あつら)えてはいないというのに。

 無論私は人間全般をそれの予備とはしている。しかし自分を一個の生身の子供と捉える時、おまえ達はまずどうあることが望ましいと思うのであろうか?そして人間は最善を他人にすすめないほど、了見狭く仕上がった被造物であるなどと、この私に具申する勇気のある者がどこかにでもいるのであろうか?

 父は私の威厳を、母は私の子供達に対する愛の温かみをそれぞれが肩代わりをし、両者がそれらを一つに合わせる時、私の本性であるところの愛は地上において円満に地歩を得ることができる。

 それはあえかなる子供達に滞りなく飲み込まれて、再び彼らがその持ち分を発揮し行く。これが代々引き続くことこそ世の定めである。

 この私が定めた法を犯す者を私は容赦しない。

 偏(ひとえ)にこの流れの立役者たるべき地位に安穏と就任して、今度は無頼を窮める。

 その方らは地上において主流派を気取って、かりそめにも得意満面であろうと、私の膝下ではただの鼻つまみ者でしかない。

 また私の法をねじ曲げようとするいかなる輩も、私の敵である。

 ときめくことと私の法は合致しないのである。

 その方の理屈は根なし草のように場所を変える。


 さて愚か者は子供をみずからの楯となし、私の名をみだりに唱える。その曰くはみずからに疚(やま)しさを覚えるからである。

 子を為すまでに深まったかに思える男女の仲は、実のところ冷え冷えとしており、お互いが依然として孤絶の極みにあり、常に猜疑心にとらわれた石礫(いしつぶて)のようである。

 いつか自分が相方に弾かれて、海の底に永遠に沈み行くのを怖れては、相手を出し抜くことばかりいつも脳裏に浮かべている。

 子供ができたのを潮にようやく婚姻を取り交わしたものの、彼らの間にはすきま風が吹きっぱなし。どんなに外見を取り繕っても、その家庭に真の団欒は根付かない。

 そんな家庭で育てられる子供の身の上を慮(おもんぱか)れないほど、おまえ達は知性に劣るのか?そして他人の幸福を破ってまでみずからの一時(いっとき)の愉しみを優先させるくらい、おまえ達は平和を築くのに不得手なのか?

 おまえ達は獣(けだもの)である。獣以下である。

 そんなおまえ達が平和の利益にあずかるとは不届きである。

 地上にいる間、せめて義(ただ)しい者達に道を開けてやれ。さもなくば。


 子供ができなければ私の前に出て来ようとはしないほど、おまえ達は相手が好きではない。

 そうでありながら、わざわざおまえ達は私の法を汚(けが)した。

 これを不当なものの見方と上訴するつもりか?おまえ達。

 まして依然として相方と婚姻を取り交わさない、またしても子供を楯に屁理屈を述べ立てて開き直る輩達、はなから非婚を前提に自然に馴染む半端者(はんぱもの)などが横行する始末。

 私はいつでもおまえ達に介入できる者である。

 おまえ達の首の皮が連なっていられるのが、おまえ達が虐げている無辜(むこ)に対する私の憐憫ゆえである時、おまえ達は今からでも彼らに礼を尽くす義務をみずからに見出だすべきである。


 それにしても、都人(みやこびと)を気取りながら、その実自然に堕すとは皮肉である。

 犬猫がその子供達に示すこまやかな愛情に透過される真率ぶりなど、彼らとは程遠くもある。

 犬猫の方こそよく私に懐いている。

 私は、おまえ達が犬猫の後塵を拝せよとするものではない。

 おまえ達はみずからの本旨に立ち戻るべきである。


 おまえ達は馬鹿なのか、哀れなのか、慮外者であるのか、本当の愛からは遠ざかっている。

 おまえ達はいつも逃げ腰、もの欲しげ、無いものねだりで、みずからお互いに愛を築こうとはしない。


 愛は私そのものである。

 この私が欠けた者であるなどと吹聴する者、いずくにかある?

 すなわち愛は円満でなければならない。

 地上でそれが保たれるためには、男女がよそ見をせず全身全霊で差し向かわなければならない。

 ただし人間は常に愚かとは無縁ではあり得ないので、一つの形をそこにあてがうのは妥当である。

 彼らはその形を第二の義と捉えるべきである。両者、そして周囲はそれを敬わなければならない。そしてそれは破壊されてはならないものである。

 それを揺り籠とする同類のためにも。

 私の愛は、そこを源にして、全ての子供達を通じて、地上に平和をもたらすため様々に変容しながら、その受け取り手の許を訪(おとな)うのである。

 この手順をおまえ達は必要ないとするのか?

「いいえ、違います」と言うのなら、おまえ達はこれを蔑ろになどしてはならない。


 まっとうな男女は、常にその行いにおいて時宜を得、周囲への配慮を欠かさず、お互いに心より誠を捧げて、晴れて婚姻の約を成す。

 それを私は嘉(よみ)するものである。

 ところがどうである。

 不実な男女は、軽々しく愛などという文言をお互い口に出しながら、私の本性とは似ても似つかない虚構を弄するばかりである。

 私は完璧である。

 一旦この愛が地上でその管掌を別にしながらも、その訪う先を求めるにあたり、これは常に純粋さを保っている。かつ裏表がない。

 それもこれも、おまえ達のいるところは完全に我が領内であって、そして私はその絶対者であるゆえにである。

 その愛の分流を体する者どもも、その立ち居振る舞いにおいて、私同様疚しさを抱えてはならないのが原則である。

 男女はその体する愛を、一つの結合のためにあだや二心なく、お互いで交換し合い、そしてそれが新たなる展開に進むのを着実にしてこそ、つつがなく私の地上における代理人たる資格を得るのである。

 この手続きにおいて欺瞞、二心といったものを介在させる者は、その時点ですでに愛の分流たる役目を果たし得ず、この私が地上に設けた男女の相性を体現する意味をみずからにたずねることはできなくなるのである。

 たとえ正式な手順を踏んだ男女とはいえ、常に相手を敬うほど、よくできた人形ではおまえ達があり得ないことは私も知る。

 けれども婚姻の約を取り交わした男女は一体の人間のようである。

 多少怪我に見舞われても、よほどのことがなければ生命(いのち)を取り止める。

 そして過ちを犯した立場にある者は、初心に鑑みて己が不義を責めさいなむ。

 そのような時、契約の絶対性は罪人(つみびと)の悔悟を活かす。

 何の縛りもないようなものに、人間は後ろめたさを感じにくい愚か者である。

 けれどもすでに正式な手順に進んである者は幸いである。

 彼らは心よりの自責の念に没入することができる。

 その姿勢いかんによって、当事者は相方、そして私の寛恕を享受しよう。

 またその二人の間柄を揺り籠とする同類に対して、決定的な罪を得る前に命拾いもしよう。

 夫婦、そして家庭というものは作りのしっかりとした一艘の舟のようである時、その乗員を向こう岸まで、安全に届け得る。

 片や、泥舟がある。

 材料にしろ、作りにしろいい加減。

 尚もって乗船者に対する愛情と責務に欠いている。

 大概お互い様というところがあるにしろ。

 いずれ崩壊するおそれを抱えていながらの船出。

 また規程の工法をあえて無視して、でたらめな普請でできた奇っ怪な形(なり)での船出。

 安普請。曰く、ちょろまかし。流用。たれ流し。

 罪人を沈めるにはよいが、生まれ立ての無辜をこれに同船させる勇気は一体いずこから湧き上がるのであろう?

 まさに舟沈没せんとする時、我が子供を石像のように覚えるのはお門(かど)違いもはなはだしいというものである。


 あまりに堅物な考え方はちょっと……

 そうも言っていられまい。

 おまえ達は、一面子供を思う気持ちから全く遠ざかるほど人非人に堕すまでの者ではそうそうあるまいて。

 どの道、生まれ落ちた我が子に対する愛(いと)おしさを我が身に感じれば感じるほど、彼らの揺り籠として頼りなく情けない家庭を省みつつ、途方もなく自責の念に駆られるはずである。

 では、今からでも。

 遅いのである。

 打算によって愛などは醸成されない。

 第一自分達の気持ちはおまえ達に決して微笑まない。

 往時の、かりそめにしろ心の高まりほどのものをみずからに見出だすことを、お互いが否定せざるを得ない始末。

 実は、それは正式な手順を踏んだ者達にしろ訪れるものである。

 けれども彼らは幸いである。

 婚姻の約に際して、彼らはお互いその愛のすべてを相方に捧げる誠を私、そして周囲の目の前で、晴れて誓い合ったものである。

 その誠の純粋さ、公明正大さはいつになってものちのち彼らを常に明るく照らすこと、とても人間世界のものではない灯台のごとく彼らには思われることであろう。

 婚姻の約以来、彼らは常に信頼という明かりにあずかっている。

 夫婦で、そして家族で彼らは楽しい船旅に興じるであろう。

 途中、いくたびか大波に呑まれそうになっても、彼らは一致団結してそれを越えるであろう。

 一方で婚姻の約が目障りに思われる夫婦がある。

 世間の手前、また子供のこともあり、複雑な胸の思いを押し殺してそれを成した夫婦は、いまだかつて相方に対してその愛の誠を捧げたこともなければ、周囲に対して疚しさを抱えての船出である。

 婚姻の約という神聖な事情にくらべて、その内実はあまりに空疎である。

 相方に対して純粋な愛を捧げたわけではないという思いが、お互いをとりどりに夢想家にさせる。

 一時(いっとき)正気に戻って、相手の顔をまじまじと眺めれば否応なく吐き気がする。

 死ぬとは分かっていても、舟の外に飛び出したい気持ちがする。

 何とまあ、実践してしまう者の多さよ。

 片方が、そして二人ともに。

 舟に取り残された子供達の末路に対して、誰が、どこでその責めを負うことになるのやら?

 そうまで行かずとも、船内は常に不協和音に満たされ、船体はいつバラバラになってもおかしくないほど、その作りの悪さが際立っている。

 第一明かりに乏しい。

 たまに流星の明かりに照らされる男と女の顔は、全く表情に変化がない。目も据わっている。

 それらの者達は、ただ自分達の子供が成長するまで自分の顔があらぬ方(かた)を見ないように矯正に励んでいる。

 彼らは、自分達では子供に対する思いにおいて、正式な手順を踏んで夫婦になった者達と同等である、いや、その上を行ってやるとの感情を鼓舞して、穴を埋めようと躍起になるものの、畢竟(ひっきょう)その穴はいつになっても埋まることはなかろう。

 そもそもその船内には信頼なるものの端緒がない。

 そのような暮らしぶりにおいて子供達はうらぶれる。

 ましてよその家庭を見て、なにがしかの不可思議を覚え、みずからの家庭の暮らしぶりと向こうのそれとを比較しつつ、そこに宿る差異の大まかな元凶を認識しては、陰に陽に、それを蔑むのである。

 このような非行に身を落とさせてしまった子供達を諌めるのに、親達は取りつく島がないのである。

 彼らは、いつまでもその船内において冷や飯食いである。


 信頼、そして愛の真価を感じることがないような家庭において成長する子供達は、多くが即物的な価値観に陥る。

 それ以遠を望む習慣から遠ざかって暮らして来たので。

 彼らは、物量によってものの善し悪しを計ることしかできないでいる。

 けれども彼らとて、人間。

 よその家庭に見受けられるものをはっきりと名状はし難くもあるが、それを欲している自分と対面する。

 しかしそれは手に入らない。

 この鬱屈を晴らさでおくものか。

 一応が家族なる枠組みの内にその身を置くものの、その属員と余人とを区引きすべき取り立てての絆(きずな)を彼は自覚できない。

 他人をいぶかしく思う習性をそのまま親にぶつける。

 さも当然のごとくに。

 親は親で、みずからの子供に対する好(よしみ)に基づいて、手を変え品を変えて彼らの心を慰撫しようと努めるものの、それを裏打ちすべき厚みにいつも事欠いている。

 厚みとはすなわち愛、そして信頼である。

 本来それらは親が子供に見せる様々な表現を隈(くま)なく埋め尽くす。

 子供はそれに対して満足する。

 ところがそれらに取りつく島のない家庭において、親はいくら形だけの誠意を矢継ぎばやに子供達にふり振り出しても、彼らはそのスカスカぶりを見抜いて、それについて満足するといった感情を呼び起こされないでいる。

 片や子供にしても、何だか分からないが自分が何かを欲しているのを知る一方、常に彼も物量による価値判断に親しみ過ぎてもおり、親と子の相性は永遠に不毛な喧嘩を繰り返す。

 これに憤るのは両者ともどもであるが、後ろめたさを隠し切れないのは親の方である。

 彼らの子供達に対する好は純粋なものであるにしろ、それをいつもグダグダにしてしまう大本の原因である、かつての自分達の不埒な真似を思い浮かべては後悔するものの、もう取り返しがつかない。

 それを知れば、彼らの顔つきは何となくひきつったようにもなる。

 それが死ぬまで続く。

 よその家庭のささやかながらも円満な団欒とは打って変わって、そのような家庭においては全員がざるに水をくむような生活に勤しまなければならないのである。

 罪深いのは親たる立場にある者達である。

 こんな蟻地獄的生活に無辜を招いてしまって。

 子供からのひっきりなしの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)をやりおおし得れば、「自分としては、まあ納得尽くのこととして御の字である」などと、おまえはうそぶくつもりであるのか?

 おまえ達は、地上における私の愛の流れを滞らせ、そこにおける平和を毀(こぼ)とうとした悪党どもにほかならない。

 これを心より悔悟する以外に、おまえ達の浮かぶ瀬はあるまい。

経世済民。😑