さよなら絵梨を読んで

恐らくないであろう話なんだけど、もしも、本当にもしも藤本タツキ先生と何かお酒の場で席を一緒にすることが、サイン会に行って言うとかではなく、あくまでそういうお酒の場であう幸運があったとして、先生から「さよなら絵梨を呼んでどう思ったか」と聞かれたら、こう言うと思う。

「しばらくぼんやりして、圧倒されて、そのあとちょっとだけ先生に腹が立ちました」

それは暴力だった

めちゃくちゃだった。
コマがほとんど横ゴマのみ、しかも同じ大きさなのだ。
視線誘導やコマの大きさは、読み手に感じさせる時間の緩急をつけるのに大事な要素と言われる。
横ゴマを続けるのはこの緩急をあえて無視する行為である。
もちろん、そういう意図で使う場合もある、けど作中ほとんどを同じ大きさの横ゴマにするなんて普通はない。
こんなんやったら読み手が飽きるか怒るかしてしまう。

でも、読んでしまったし、ページをめくる手は止まらなかった。

ラーメン発見伝という漫画のシーンを思い出す。
「客はラーメンじゃなく情報を食っているんだ~」という話。
最初読んでいるときはこれを感じた、面白いから読むのではなく、タツキ先生の漫画だから、読んでいるのではないか。
情報の集合体である漫画を読んでいる時に、こんな感想を抱くのも変な話である。

だけれど、そんなことも考えてられなくなった。

ただひたすら、続きが気になる。奇抜に見えて、基本に忠実でガチガチなプロット、飽きないカメラアングル。アクセントのように添加されたイレギュラーやギャグテンポ。
何が起こるか分からない、虚像の中に写されたものが現実なのか虚像なのか分からなくなる。
この漫画は全てが曖昧だと突きつける。

そして急に終わった。

あれ?終わった…と思った。
思い出してみるも、無我夢中で読んだという記憶しかない。

まるで風邪をひいたとき見る夢のようだった。
読んだという体験だけが残った。
作中のあれがどういった意味なのだろう?とかは置いておいて、なんかすごかったなという感想だけが出た。

漫画でいうと、新井英樹先生のザ・ワールド・イズ・マインを読んだ時や、二瓶先生のアバラを読み終わった時に近かった。(そういえばタツキ先生はアバラ好きって言ってたや)

映画で言うなら、レフン監督の「ネオン・デーモン」や、中島哲也監督の「渇き」を見た時に近かった。
現実と虚像をぐちゃぐちゃにするという点ではノーラン監督のインセプションを見に行った時にも近い感覚だったかもしれない。

ただひたすらの暴力、読者にあらゆる力を込めて読ませ、意味があったのかも分からないくらい頭の中をぐちゃぐちゃにする作品。

そう、映画だった。タツキ先生は漫画で映画をやりたかったのだと思った。

それは映画だった

単調すぎるコマ割りは、読み手の時間軸を一定にした。
アングルが変わる時はシーンが変わる時、変わらない時はカメラが回り続けている時。
そうだ、タツキ先生は漫画で映画をやりたかったんだ!

漫画で、映画を表現して、映画はいいよね、と。漫画を使って、映画への愛をこめて。


………。

振り返るとさらに恐ろしいことに気が付く。

「封切」しているのだ。

林士平編集の告知に始まり、「タツキ先生の読み切りだから」と画面前に集まり、日付が変わった瞬間みんなが一斉に読み、感想を投げる。

先のレフン監督の作品にもある、コアな映画ファンのごとき動きを感じた。

従来の漫画は、どうしてもワンクッション挟む必要があった。
買う、部屋にもっていく、読む、だ。
でも、今は買ったら(無料だから買うと言っていいのか?)すぐに読める。
しかもこの作品のコマ割りと構成は、休憩を挟ませない。
まるで封切初日に見る映画だ。
そこまで含めて、漫画を映画近づけてしまった。

Web掲載が主流になってくれば、いつかは辿り着く流れではあったろう。
先生達がそこまで考えていたかは分からない。
でも、先生達はまるで話題の映画監督による新作封切の如く読み切りを公表した。映画のような漫画を、映画のように世に出した。

そしてそれは恐らく成功した。

それはすべてを塞いだ

映画と言えば、この漫画の一部表現はフィリップス監督の「ジョーカー」を思い起こさせる。
ジョーカーは作中で「何かが起きた時、勝手に自分の都合のいい解釈をする人々」を揶揄していた。おそらく視聴した人への予想をこめて。
資本主義を皮肉るモダンタイムスを格式の高い作品としてみる上流階級たちのシーンが特に好きだ。
そしてジョーカーは監督の予想通りか、社会現象として、見た人たちに都合よく使われることになる。

さよなら絵梨にも似たものを感じた。

おおよその感想は、劇中で言われてしまっている。
爆発はないだろ、糞映画。泣ける映画。

「ジョーカー」なら、動画なら、視聴者はその解釈を自分の都合の良い方にもっていきやすかっただろう。聞き落すかもしれないし、瞬きして見落とすかもしれない。
でも漫画はそうはいかない。
あまりの単調なコマは、すべてを見せる。全てのセリフを読ませる。
何かを言おうものなら、学園祭の生徒のセリフを思い返される。
やはり漫画は、映画とは違う強さを持つ。
そしてタツキ先生はそれを理解しているし武器にしている。

「えぇ、どんな感想を持つのも自由です。あなたがそういう感想を言うという事はお見通しですけど。」
面白かったというか、拍手するか、黙るしかなくなってしまう。

そのプロット、演出、漫画力は感想を言う事すらひん曲げてしまう。
さすがに暴力と呼ぶしかない。


やはりそれは暴力だった

タツキ先生はなぜこれを描いたのか、実はちょっと分からない。
テーマという言葉はあまり好きじゃない。それじゃあギャグマンガのテーマは何だよってなってしまうから。
作家が本当に追及するのは、「読者をどう変化させてやろうか」だと思う。
満足させたかった?
面白かったと言わせたかった?
映画はいいよねと日常の思考に潜り込ませたかった?
読んだ人をぐしゃぐしゃにしたいだけなら読む映画にしなくてもいい。
今まで描いてきた作品のようにその力量をぶつけてやるだけでいい。
でも、それだけじゃあ物足りなかったのだろう。

やれるから、やったのだ。
まるで面白い映画を見たように錯覚する面白い漫画を作れるぞ、と。
その鍛えた表現力と構成力を以て。

映画のような漫画を、読んだ人に叩き込めると思ったからやったのだ。

限りなく映画に近づけてみたかったのだと思うし、映画よりも見落としのない理想の映画に成せていた。
自分の立場や発信力や、編集さんといった環境がとてもうまく整って、やれるタイミングだったからやってみた。

きっと面白くなると思ったから。

病院が爆発したら面白いと思ったように。
並んだドミノを見て、押したら倒れるかな?と思いながら、持てる力を全部使って押しただけ。

これはあくまで自分の妄想入り混じった感想であり、先生の心を代弁してものなんかではなく、ただそうなんじゃないかと思っただけだけど。

自分も学園祭の学生の一人にすぎないのだけど。
でも作品の中にそんな感想はなかったし、言ってもいいでしょう?

タツキ先生の繰り出す、ただひたすら大きな暴力に滅茶苦茶に脳を揺さぶられて、なんてひどいことをする人だ、とちょっとだけ腹が立ちました。

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