『哭声/コクソン』の感想 ~2000年前の現地人の追体験~

國村隼さんがめちゃくちゃ怖い映画『哭声/コクソン』を見ました。
韓国では「國村隼が来るよ!」となまはげ扱いを受けているという話があったとか。R15なので怖いとかグロいの駄目な方とかは見ない方がいいです。夢に出ます。


以下ネタバレ、見終わった人か、映画見ないからいいやって人向け
























これはすごい映画だった

見終わった時の最初の感想は「は?意味が分からん…」でした。
そりゃそうですよ、結局國村隼さん演じる山の中の日本人の正体は分からない、イルグァン(祈祷師)は言っていることが二転三転するし、よく分からない女の人出てくるし、最後に日本人はよく分からんこと助祭に言ってるし、みんな死んでるし…
日本人の手に聖痕があったので、あーこいつキリストの隠喩?キリストモチーフで聖書になぞらえたサスペンス作りたかったのかなー、位の気持ちでいました。
でも、ふと気が付きました。

山の中の日本人のモデルは、キリストではなく、「当時、2000年前のユダヤ教徒から見た新興宗教の長イエス」じゃないかということに。



というか監督本人がそう言ってるじゃないですかー!

“よそ者”を日本人にしたことについて、ひとつは新約聖書の影響を大きく受けています。イエスがエルサレムに向かっていく時にユダヤ人がどのように受け止めたのかというフィーリングを活かしたいと思いました。この映画は混沌や混乱、疑惑について描いていますが、イエスは歴史上最も混乱を与え、疑惑を持たれた人物の中の一人ですよね。そういう意味で、見た目は似ているけれど、全く違うという異邦人が必要でした。

よっしゃ!感想書くぞ!と思ってから見つけてしまったこの体たらく。
リンク先で監督が大体言いたいこと言ってくださってますね…。

当時のキリスト教は危険思想の集団と言えた

今でこそ世界三大宗教と言われるキリスト教ですが、当時は問題視された集団でした。その結果、教祖が処刑されてますしね。
ユダヤ教の教えは当時の人たちにとっては生活、しいては生き方そのものといっても過言ではなかったでしょう(今現在でもそういう方々もいらっしゃいます)。
親も祖父母も兄弟も友達も、周りがみんな信じて疑わないこと、今までもこれからも信じていくこと、その位根強いものだったと思います。
その生活の基盤である教義に懐疑的だったのがイエスでした。
市場で暴れたり、本来の神の教えから離れていると思った行為に対してイエス一派はかなりヤンチャをしています。

イエスの考えに感銘を受けたものは、はたから見たらそれはもう悪魔に乗っ取られたと思われていたかもしれません。
熱心なイスラム教の方が、「ムハンマドの教えはアッラーのご意向とは違う!今日から豚肉を食べる!」と言い始めたら、悪魔が乗り移ったと周りの人は考えるでしょう。

殺人に置き換えられた「改宗」という当時のインパクト

悪魔が乗り移ったと表現するくらいには改宗というのは当時では考えられないことです。今現在で言えば殺人と同等のインパクトです。
この作品、「殺人、しかも血縁者を殺す」という異常性を用いて、改宗という言葉を出さずに、当時のイエス一派の騒動、改宗騒ぎの衝撃を現代の人にも分かるようになぞらえているんですよ!凄いです!
「嫌いな魚を食べるようになった」「今の生活の疑問にずばずば疑問を投げるようになった」完全にユダヤの教えに懐疑的になった人たちの言動にかぶせられるんです。

尾ひれがつく日本人像、そして写真を撮られる人たち

町の人々は、日本人が来てからおかしくなった人たちが現れたと噂をし始めます。
・あいつの周りでは不思議なことが起きる。
・いや、変なことが起きているのはキノコの幻覚のせいだ。
・でも、会ってみると普通の礼儀正しい人だ。
・学者じゃないかと言われている。
・あいつは死者を蘇らせるらしい。
・人々が襲い掛かってきたことに対して泣いていた。
・あいつは人々のために動いている。
・いや、祈祷師はあいつは私たちに悪事をなす悪霊だと言っている。
・これだけは確実だ、おかしくなった人間は全て、あいつにあった人間、写真を撮られている。

警察官のジョングとともに私たちが見た日本人像はこれくらい錯綜しています。これもまさにユダヤ教徒の間で広まるイエスへの憶測です。
僕らはどんどんと2000年前の追体験をさせられていきます。
・イエスの周りでは起こりえないことが起きる(パンを増やしたり水の上を渡ったり)
・奇跡は集団幻覚だったのではないか?
・実際会ってみると普通の人間だ(当時の大工は高い階級だったので、知能の高さもうかがえる)
・死者を蘇らせるらしい
・私たちが迫害することに泣いている。
・人々のことを考えている。
・司祭たちは異端だと攻め立てる。
イエスの功績を含め、うわさは尾ひれが付き、どんどんと錯綜します。

そんな中、ひとつだけは確実な事は

・これだけは確実だ、おかしくなった人間は全て、あいつに会った人間、写真を撮られている。

生前の写真を撮られるという行為は、教えを説く行為。
それによって、改宗するかはその人次第ですし、した場合のタイミングもまちまちですが、多くの人はこの行為(=説法を受ける)によって変わっていきます。

山の中の日本人が死んでも続く騒動

山の中の日本人は作品の途中で死んでいます。
でもその後も事件は起こり続けています。

イエスの復活を指しているとのページはよくお見掛けしましたが、多分少し違います。
イエスが死んでも人々が改宗していく様を表しているんです。
挙句の果てにラストでは祈祷師までも日本人に魅入られたような状態になります。
みなさんあれを見たときに思ったと思います「え?????お前どうしたん???グルだったん????」

いくつかの考察サイトでも言われていますがあの祈祷師は完全に聖パウロ(キリスト迫害派だったがのちに改宗)がモチーフでしょう。これも、かの方の改修は映画ラストを見た僕ら以上の衝撃だったと思います「え????お前なんで迫害してた宗教側についてんの???グルだったん????」

何が正解だったのか分からない、という感覚を得させるための舞台装置

コクソンの考察で、だれが真犯人なのか、という話をちらほら見かけましたが、真犯人はいないと思います。
突然現れた女とかマグダラのマリア現してそうですがもうよく分かりません。
そう、コクソン村で起きたこの一連の殺人事件は「加害者がいるけど絶対に分からない事件」なんです。

明らかにユダヤの教えを利用して暴利を得ていた背景が正しいのか、それを指摘し、人々に混乱も与えたイエスが正しいのか、それを処刑した民衆は正しいのかなんて当時の人には分かりませんし、今でも正しいのかなんてわかりません。2000年前の騒動を現代にチューンしたこのコクソン村の騒動は、時代の争乱や戦争、大災害に近い事象なんです。
コクソン村で起きた事件は「何が正しいのか分からない事象」、中身がNULLな事象なのです。
では監督は何が伝えたかったのか、これはもう、「何が正しいか分からない事象」の中必死にもがく人間を描きたかったんだと思います。
この訳の分からないバイオレンスな事件、映画の8割を占めるこの事件は、そのための舞台装置だったんだと思います。

先述のリンク先で監督はこう言っています。

私が今回の脚本を書いたのは、被害者の立場に立ってみたいと思ったからです。私が望んでいることは、被害者が出るということは、それを送り出す遺族がいます。遺族はそのことをどう思うだろうか……と。そして私達は遺族に対して慰めの言葉をかけますよね。だから、<慰め>ということがエンディングになることを望んでいました。
もちろん苦しみや悲しみや痛みなどを他の人が感じることはできませんが、私たちは<あなたが、家族のために家長として、父親としてどのような努力をしてきたのか、最善の努力をしてきたことを見守ってきました。失敗はしてしまったけれど、その努力する姿を見守ってきました。あなたは立派な父親でありベストを尽くしました。だから、余り苦しまないでください。辛く思わないでください。あなたは最高の父親ですよ>と慰めになるような映画になることを望みました。

被害者、遺族の感情をできるだけ見た人に共感させたい、でも加害者という要素は出来るだけ取り払いたい。
この挑戦を行うため、わざわざ2000年前に起きた歴史上最大級の混乱を現代でも通じるインパクトに置き換え舞台装置とし、見る人々へぶつけてきたのだと思います。
「何が起きたか全然わからん」「なんかジョング警官、訳の分からんことに巻き込まれて可哀そうだったな…でも家族を守ろうと頑張ってたよ…」
こう思えたなら、あなたは監督の思った通りの感情、そして2000年前の追体験が出来たと言えるのかもしれません。


終わりに

なんか興奮に任せて書きなぐってしまいました。
もうこの映画はすごかったな…と思うばかりであります。
暴力的・猟奇的なシーンが多いので誰にでも勧められるものではないですが、これを見れてよかったと自分は思います。
長文となりましたがここまで読んでいただきありがとうございます。



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