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【壬癸の章】 静かな悪意

アルバイト先で、私の教育係としてついてくれた高畑さんから聞いた話。
高畑さんは現在妊娠6か月。
職場から車で15分ほどの場所に旦那さんと2人で住んでいる。
妊娠も安定期に入り、新たな生命の誕生を夫婦でとても楽しみにしていた。
出産は実家にお世話になると言う事で、それに合わせての人員補填によるアルバイトの採用だった。
人当たりも良く、教え方も丁寧で、自分でもビックリするほど早く仕事のコツを飲み込む事が出来た。
お店の人達も高畑さんが退職する事を、残念がっているのがよく分かる。
そんな高畑さんが、休み明けに出勤してきた時から元気がない。
どうしたのかと思って声をかけても、曖昧に言葉を濁すだけだ。
気になりながらも、仕事の手を休める訳にはいかない。
ようやく休憩時間になり、高畑さんとゆっくり話をすることが出来た。
「身体、きついんじゃないですか? ムリしないで下さいね」
安定期に入ったとは言え、妊娠中の身体には何が起こるかわからない。
体調がきついのであれば休んで欲しくて声をかけると、高畑さんはちょっと微笑んで首を振った。
「心配かけて、ごめんなさいね。身体は大丈夫。ありがとう」
それから僅かの間、何かを考えこむような表情をして
「あのね……すごく変な話なんだけど、聞いてくれる?」
と躊躇いがちに高畑さんは口を開いた。
「いいですよ。っていうか、話してください。気になりますよ」
を私が同意を示すと、彼女はホッとしたように話し始めた。

前日の休みは、病院へ検診に行く日だったそうだ。
かかりつけの病院へは休みを取ってくれた旦那さんの運転で向かう。
腕がいいと評判の産院であるため、待合室はいつも混雑している。
それでも初めてのお産を迎える高畑さんは、少しでも安心できる環境で出産に臨みたいとこの産院を選んだと言う。
約半日を費やして定期検診を終え、お腹の中の子供が無事に成長をしている事に夫婦で安心と喜びを胸に自宅へと戻ってきた。
駐車場へ車を移動させる旦那さんとマンション入口で分かれ、高畑さんは一足先にエレベーターで自宅のある5階へ。
廊下を歩きながら鍵を取り出し、自宅の玄関前に立った時、ドアの脇に見慣れないモノを見つけた。
朝、玄関に鍵をかけた時には絶対になかったはずのヌイグルミが置かれていたのだ。
大きさとしては50センチほど。
決して小さなモノではない。
出かける時に見落としていたなどと言うことはあり得なかった。
誰かが忘れていったものなのだろうか?
ブラウンの毛並みにブルーのリボンを首に巻かれたクマのヌイグルミは、とても愛らしい物だった。
だがそれは、子供部屋などに置かれていれば……の話だ。
玄関先に誰が置いたのかも分からない現状では、愛らしいという感情よりも戸惑ってしまう方が先に立つ。
どうしたものかと困っていると、旦那さんがやってきた。
部屋にいるものだと思っていた高畑さんが玄関先で途方にくれている姿に、旦那さんがどうしたのかと声をかけてくる。
事情を説明すると、そのヌイグルミを旦那さんが管理人室に届けてくれる事になった。
ヌイグルミを持ち上げると、その下に何かがあるのに気がつく。
白地に黒い枠取りをされた紙片。
そこには赤い文字で『ご懐妊おめでとうございます』と書かれていた。
どう考えても悪意しか感じられない。
本当にお祝いの気持ちを伝えたいのであれば、他にいくらでも方法はある。
こんな気持ちの悪い方法は取らないだろう。
眉間にしわを寄せた旦那さんはその紙片を拾い上げると、片手でクシャクシャにしてしまった。
「まったく、どこの誰だか知らないけど、気持ちの悪いことをしやがって……」
それは高畑さんにしても同じ気持ちだった。
幾分か乱暴な足音を立てながら再びエレベーターへ向かう旦那さんの後ろ姿を見ながら、高畑さんは玄関の鍵を開けて部屋へ入った。
少しでも気分を切り替えようと、時間をかけてゆっくりとコーヒーを淹れる。
コーヒーの良い香りが部屋中に広がった頃、旦那さんが部屋に戻ってきた。
先ほどの不機嫌な表情とは異なり、今は奇妙な顔をしている。
「今、管理人さんと話をしてきたんだけど……不審な人物は誰もマンションに入ってきてないって言うんだよ」
高畑さんに差し出されたコーヒーカップを受け取りながら、旦那さんは首を傾げた。
2人が住んでいるマンションは、オートロック仕様ではないために管理人が在駐している。
防犯カメラも設置され、住民ではない人物がマンション内に入れば必ず何かしらの痕跡が残るのだ。
旦那さんから話を聞いた管理人は、高畑さん夫妻が出掛けてから先ほどまで宅配業者を含め来客はなかったと説明してくれた。
だとすると、マンション内の誰かが高畑さん宅の玄関先にヌイグルミを置いたことになる。
あの気持ちの悪いメッセージと共に……。
外部からの侵入者によるものよりも、内部にそのような行動をとる人物がいるという事のほうが怖い。
「あのヌイグルミは管理人さんに預かってもらってきたよ。見回りの時にも気にかけてくれるってさ」
「一体、誰なのかしら。あんまり気持ちのいいもんじゃ、ないわ」
「世の中、色んな人がいるもんさ。気にし過ぎると、身体に良くないぞ」
訳の分からない事を、いくら考えても答えが出るはずもない。
高畑さん夫婦はヌイグルミの話をする事をやめた。
翌日、そんな事も忘れて出勤準備をしていた高畑さんは、旦那さんの驚いた声で慌てて玄関へと向かった。
そこにはドアを半開きにして廊下へ顔を出し、固まっている旦那さんの姿がある。
「どうしたの?」
恐る恐る問いかけた高畑さんに、旦那さんはこわばった表情で振り返り「コレ……」と廊下を指差した。
ドアから廊下を覗いた高畑さんは、思わず声をあげてしまった。
そこには、管理人に預けたはずのヌイグルミが座っている。
黒いボタンで作られた、本来ならあどけない印象を受けるクマの両目が、彼女にとってはとてつもなく厭なモノに思えて仕方がなかったという。
旦那さんは喉の奥で唸り声をあげると、ヌイグルミを乱暴に掴みあげた。
昨日と同じ、白地に黒い枠取りの紙片に赤い文字。
「ゴミ袋!」
動けずにいた高畑さんは怒鳴るような旦那さんの声に弾かれ、キッチンから大きめのビニール袋を持ってきた。
手渡されたビニール袋にヌイグルミを放り込み、「このまま捨ててくる」と言い残して旦那さんは出勤して行った。
高畑さんも出勤する前に管理人室へ寄って、昨日のヌイグルミはどうなったのかを確認してみた。
管理人は「誰も引取にきていない。預かったまま忘れ物用の箱に入れてある」と返答したが、案の定、箱の中にヌイグルミは入っていなかったそうだ。
高畑さんは管理人に事情を説明し、もしもまた見つけた場合はそのまま捨ててくれるように頼んだ。
そして気持ちの切り替えが出来ないまま、職場に出てきたというのだ。

「それは……気持ちが悪いですね」
思いもよらなかった内容に、私はなんと言っていいのか分からなくなって当り障りのない言葉を口にした。
「心当たりはないんですよね?」
「私にも主人にも、心当たりなんて全然ないのよ。でも、こんな御時世でしょ? もしかしたら知らないうちに、誰かの恨みをかってしまってるんじゃないかとか、そんな事を考えてしまって」
話したことで少しは気が紛れたのか、彼女の顔に赤みが差してきた。
「きっと悪質な嫌がらせですよ。続くようなら記録を取って、警察に相談した方がいいと思いますけど」
思いつく対策といえば、そのくらいだった。
「管理人さんが常駐しているマンションなら、外部から誰かが入り込んでというのは難しいでしょうし。やっぱりマンション内の誰かなんでしょうね。気にしないで……っていうのは難しいかもしれませんけど」
「そうだね、あんまり気にしないようにするよ。主人もいてくれるし、実害と言えばヌイグルミと紙を置かれるだけだから」
無理やりにであろう高畑さんの笑顔を見ていると、もうちょっと何か力になれることはないのかと気持ちが落ち込んだ。
出産を控えている妊婦に対して、気持ちの悪い嫌がらせをしかけてくる相手に対しての怒りもある。
何事も無く無事に解決してくれる事を願うしかなかった。

しかし、それからも同じヌイグルミ、同じ紙片の嫌がらせは高畑さん夫婦を悩ませ続けた。
事情を知っている私にだけ話してくれた内容によると、件のヌイグルミは捨てても捨てても自宅の玄関前に置かれたそうだ。
その下には黒く縁取りされた赤文字のメモ書き。
一体誰が、どういう目的があってしていることなのか、全く分からない。
連日置かれる場合もあるし、数日の間を空けて置かれる場合もあったようだ。
同じマンションに住む顔見知りの奥さん達にも、それとなく話をしてみたが、誰もそのような行動をする人物に心当たりはないという事だった。
もちろん、警察にも相談に行った。
だが事件性が認められず、「こちらではどうしようもない」と言われただけだった。
対処の方法が分からない、意味の分からない出来事ほど、人間は神経をすり減らしていくようだ。
高畑さんも日に日に元気がなくなっていき、顔色が悪くなっていった。
このままではお腹の子供にも影響が出かねない。
事態を重く見た高畑さん夫婦は産院や職場と相談を重ね、早めに実家へ里帰りする事に決まった。
そのために予定よりも早く職場を退職する事になり、「本当はもっとちゃんと教えてあげたかったのに、中途半端になってしまってごめんなさいね」と高畑さんに頭を下げられた。
「そんな……。高畑さんには一杯、色んな事を教えてもらって感謝してます。元気な赤ちゃんを産んで下さいね!」
これまでの感謝を込めて、高畑さんの手を握る。
初めて会った時からすれば、格段にやつれてしまった彼女の腕。
実家へ里帰り(避難)する事ができれば、少しは安心して出産を迎える事ができるだろう。
反応がなくなれば、嫌がらせも収まるかもしれない。
職場を出て駐車場へ向かう高畑さんを見送ろうと、彼女の車の前まで向かう。
バッグの中から車のキーを取り出した高畑さんは、わずかな間、迷うような表情をして……私の方に向き直ると口を開いた。
「あのヌイグルミね、何となくだけど、私達夫婦の事を知っている知人の犯行のような気がするの。誰って言われたら困るんだけど、きっと私達の生活スタイルを知っていて、どこかで隠れて見ているような気がしてならないのよ。ヌイグルミはだんだん薄汚れてくるし、赤い文字もかすれて……。まるで出産を控えた私達を呪っているような。だって血で書かれたみたいに見えるんだもの。だから出産が終わっても、あのマンションには帰らないつもり。主人と相談して、私の実家の近くに引っ越す事にしたの。本当は生活が落ち着いたら仕事に復帰して欲しいって話もあったんだけど。こんな状態じゃとてもムリね。だから、あなたと会うのもこれで最後になっちゃうの。本当に色々と心残りがあるんだけど……。でも今の私は、この子を守る事が一番だから」
きっとどうやって伝えようか、ずっと考えてくれていたのだろう。
言葉が止まることを恐れるように、高畑さんは一気に話してくれた。
そして「今まで本当にありがとう。あなたに会えて良かったわ。元気でね」と手を振り、車に乗り込んで行ってしまった。

結局、高畑さん夫妻を悩ませたヌイグルミと赤文字のメモは、誰が何のために送りつけた物なのか分からずじまい。
姿形のない匿名の悪意が、高畑さん夫妻を追い詰めた事だけは確かだ。

ヌイグルミと黒縁赤文字のメモは今どうなっているのか?
他の誰かのもとに、静かな悪意を届けているのだろうか?
それは私にも分からない……。