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【壬癸の章】理想の味を求めて

これは数年前に職場を離れた、先輩Dさんから聞いた話。

──Dさんは若い頃から無類のラーメン好きで、いつか自分でも店を持ちたいと考えるほどだった。
昼間は仕事をしながら、休みの日には理想の味を求めて色んな店のラーメンを食べ歩き、熱心に「研究」していた。
ある夜のこと。
その日は仕事が思った以上に忙しくて昼食をまともに摂ることができず、しかも帰りが終電間際になってしまい、Dさんは空きっ腹を抱えて家路を急いでいた。
「これから帰っても家には何もないし、途中で食べて帰ろうにも、店は軒並み営業が終わってる。コンビニでカップラーメンでも買って帰るかと思ってたんだけどさ」
これから1人で味気ない食事をすることを思ってげんなりしていると、Dさんの鼻先を嗅ぎ慣れたスープの匂いが横切った。
ラーメンのスープの匂いだ。
この辺りにラーメン屋はなかったはず。
そう思って周囲を見回すと、大通りの交差点にある歩道橋の下に1台の屋台が出ている。
「らーめん」と書かれた赤い暖簾が、Dさんを招くように揺れていた。
途端に腹の虫が猛烈に主張を始め、堪らずにDさんは屋台に飛び込んだ。
「いらっしゃい!」
他に客はおらず、Dさんは愛想のいい店主に1杯注文すると、思い切りスープの匂いを吸い込んだ。
手際よくラーメンを作っていく店主に話しかけてみた。
「ここって帰り道なんですけど、今まで屋台が出てるなんて知りませんでしたよ。いつもこれくらいの時間に?」
「そうだねぇ、いつもこのくらいの時間かな。終電帰りのお客さんを狙ってね」
目の前に出された丼からは湯気が立ち上り、Dさんに食べられるのを待っている。
まずは一口、と、スープを含んでみて驚いた。
これまで彼が食べてきたどんなラーメンよりも美味だったのだ。
一気に麺を啜り込むと、スープの一滴まで残さずに飲み干してから、Dさんは満足気に息を吐き出した。
「いやぁ、美味かった! お世辞抜きで、これまで食べたラーメンの中で一番美味かったですよ!」
興奮気味に伝えるDさんに、大将は人の良さそうな笑顔で頭を下げた。
このラーメンの味が忘れられなくなったDさんは、それからも時間を見つけては大通りの交差点まで足を運んだが、タイミングが悪いのか、はたまた店主の納得するスープが出来なかったのか、屋台と巡り合うことができなかった。
食べられないとなると余計に食べたくなるのが人間の常で、Dさんは寝ても覚めてもこの屋台ラーメンのことばかり考えるようになっていった。
「他の店のラーメンじゃ駄目なんだよ。あの屋台のラーメンが食べたくて食べたくて。ホント、半病人のようになっていたよ」
Dさんが屋台を探し始めてしばらく経った頃、またしても帰りが終電になることがあった。
トボトボと歩いていると、彼の鼻先を求めていた匂いが横切る。
気がついたDさんは喜び勇んで大通りの歩道橋を目指して駆け出した。
前回あったのと同じ場所に、目当ての屋台はあった。
屋台に飛び込むと、腰掛けるなり店主にラーメンを注文した。
替え玉まで頼んで思う存分ラーメンを堪能してから、Dさんはようやく一息ついた。
「いやぁ、この味が忘れられなくてね。自分でも何度か再現しようとしたんだけど、作れば作るほど違う味になっちゃって。どうしても上手く行かないんですよ。使ってるのは鶏ガラですよね? でもどうやったらこんなにガツンとくる味になるんだろう。ねえ、大将、何かヒントを教えて下さいよ」
ラーメン屋がそうそう簡単にスープのレシピを教えてくれるとは思っていなかったが、駄目元で声をかけてみる。
案の定、店主は愛想のいい笑顔を浮かべたまま「それは企業秘密ってやつで」と言葉を濁した。
それからもDさんは時間を見つけては、足繁く屋台のラーメン屋に通った。
こうなったらもう意地だ。
すっかり屋台の常連になり、少しでもスープの秘密に近づこうと研究に励むDさんに、店主は根負けしたように笑いながら
「あんたにゃ負けたよ。うちのスープの作り方を教えてやるから、今度、ここに書いてある場所まで来てくれ」
と1枚の紙切れを渡してきた。
Dさんは大喜びで、休みの日を待って指示された場所へと向かった。
そこは廃墟になった工場の裏手にある空き地で、辺りには民家もない。
間違えてしまったのかと思った時、工場の出入口から屋台の店主が姿を現した。
「やあ、待ってましたよ。さあ、中に入って」
一瞬だけためらったが、好奇心には勝てずにDさんは廃工場の中へと入って行った。
置き去りにされた機材が並ぶ床の上に、巨大な寸胴鍋とそれを熱するガスコンロが場違いな存在感を放っている。
周囲におなじみになったスープの匂いが濃く漂っている。
火ばさみを手にした店主が鍋の中身をかき混ぜながら、Dさんに笑いかけた。
「あんたが気になってたのは、こいつだろ?」
持ち上げられた火ばさみの先を見て、Dさんは思わず口元を押さえた。
既に何時間も煮込まれていたのだろう、灰色をした肌の表面はグズグズに蕩け、原型は分からなくなっている。
だが体毛のないその物体が4足動物のものであることは見て取れた。
ふやけた手足の先が5本に分かれている。
それはまるで……。
「それってまさか──」
Dさんが当たって欲しくない想像を口にしようとした時、コンロの脇に転がっていた麻袋がモゾモゾと動くのが目に入った。
かすかに袋の中から「あ゛ぁ゛ーーー」という細い声が聞こえてきた気がした。
店主は「チッ」と小さく舌打ちをすると、床から鉄パイプを拾い上げた。
Dさんが止める間もなく、店主は鉄パイプを振り上げ、何度も何度も麻袋に向かって振り下ろした。
店主が鉄パイプを振り上げるのをやめた時、袋は動きも呻きもしなくなっていた。
斑に赤く染まった麻袋の口を開き、中に入っていたモノを掴み出した。
ピクピクと痙攣するソレは泥色に汚れた毛に覆われた動物のように見える。
そこまでだった。
いつもと同じように人好きのする笑顔のまま店主がDさんを振り返った瞬間、彼は弾かれたように廃工場から飛び出した。
記憶を頼りに通りを走り、良く見知った交差点まで辿り着いたDさんは、ようやく足を止めてからその場で嘔吐した。
今まで自分が食べていたラーメンがアレで作られているのかと思うと、我慢できなかった。
とにかく吐いて吐いて胃が空っぽになったのか、胃液だけが焼けるように食道をせり上がってくる。
嘔吐が治まってからも動くことができず、Dさんは通行人に遠巻きにされながら道にへたり込んだ。──

彼はこの出来事以来、自分の店を持つことも諦めた。
「スープの匂いを嗅いだだけで思い出しちまうんだ、あの毛むくじゃらの生き物の姿を。大将が寸胴鍋から取り出した肉の塊……そんなことはあり得ないだろうけど、ちょうど……」
Dさんは言葉を濁したが、その両手は無意識に小さな赤ん坊を抱く仕草をしていた。
「もうラーメンを食ってないんだ。肉もなんだか苦手になっちゃってな……最近は野菜ばっかり食ってるよ。おかげで健康診断にも引っかからなくなった」
ただ時折、無性にラーメンを食べたくなる時があるのだと言う。
それがとても困るのだと。
「あの屋台のラーメンが食いたくて食いたくて。今はまだどうにか我慢できてるけどな。でもそのうちに、我慢できなくなるかも知れないって考えると、怖くて仕方がないんだよ」
そう言ったDさんの視線の先には、大きくなったお腹をさすっている彼の奥さんの姿があった。