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おめでとう銀メダル!車いすバスケットボールに思うこと

車いすバスケ、見てました。
(ヘッダー写真はTwitterから拝借しました)
本当にすごかった!!

私自身、小学生の頃ミニバスケットボールをやってました。ガードでキャプテンだったのですが、当時のコーチに練習中叩かれて脳震盪を起こしてしまい、気がついたら親が私を辞めさせていました。
背が伸びなかった私は、中学ではバスケは昼休みの遊びでやる程度になってしまったけど、時代はスラムダンク全盛期!
私だけでなく周りもバスケが大好きでした。

そんな中、同級生の坂本貴くんが骨肉腫で片足の膝下を切断しました。
彼は運動神経が良く、寡黙だけど自分のこだわりがたくさんある人で、もともと群れず1人で行動する派の人だったけど、ご近所だし幼い頃から知っているので、気にしていました。けれど、子どもだった私も周りの同級生も、片足を失った同級生にどう接して良いか分からずにいました。彼もそんな空気を感じたのでしょう。学校に来なくなり、あまり会うこともなく高校も別になり、近所に住んでいながら疎遠になりました。

私はその後大学進学で大阪に行き、社会人生活を3年ほどした時、当時勤めていた会社で睡眠障害が発覚し、精神的にも病んで3ヶ月ほど休職しました。
その時に1ヶ月ほど地元に帰っていたのですが、ちょうどその時国体を地元でやっていて、NHKで県内ニュースを見ていたら「車いすバスケ」県代表に、中学以来で坂本くんを見つけるのでした。
驚きました。彼はあれから車いすバスケをやっていたんだ!
生き生きと活躍する彼の姿は、弱り切っていた私の心を震わせるものでした。

彼と話したい。
私は彼の実家に宛てて手紙を書きポストに投函しました。
大阪に戻った後、会社を辞め、その頃とてもお世話になっていた仕事の先輩が立ち上げた会社を手伝いながら、今の音楽仕事のパートナーであるn/の2人がいたバンドのお手伝いをし始めて東京にも頻繁に通い出した頃。
坂本くんから返事が来ました。メールアドレスを手紙に書いておいたので、返事はメールでした。
読むと、実家に出していた手紙を受け取ったのがだいぶ経ってからだったこと、実は横浜でシェアハウスで暮らしていること、車いすバスケをやっているけど普段は義足で活動していることなどが書いてありました。
中学の頃、突然足を失った同級生にうまく接することができなくてあの頃はごめん、と書いた私に「そんなこと気にしなくて良い」とそっけなく書いた彼らしいメール。
そして、私が東京に仕事で行くタイミングで、桜木町駅前で待ち合わせをして再会を果たしました。
坂本くんは、車を運転してきました。
街を一緒に歩いても、あまりにも滑らかで義足の人だと言わなければわからないくらい、彼は普通にしていました。
けど、それはそこまでに彼の努力があってこそなんだろうなと思います。彼は照れ屋で皮肉屋だったので、そんな風には言わなかったけど。

その後、時折メールをするようになりました。
ある日「骨肉腫が再発して、転移がある。入院してるけど、もう治療ができないと言われた」とメールがありました。
そして治療が出来ないと言われた病院を、半ば強引に退院してしまった。
けれど彼は前向きで、民間療法をやったり、懸命に生きようとしていました。
それでも己の命の限界が見えたのだろう、途中から「あと少ししかない人生を好きなように生きたい」と考えて、彼は南の島に、一人旅に出ていきました。
心配する家族も友達も、誰も同伴させず、最後の一人旅。

私はそれを彼のブログで見ていた。
彼は最期まで自分の人生を思い通りに生きていた(病気の再発以外は)。
きっと帰ってきたら、嘘みたいに元気に鳴るんじゃないか。そう思わせるくらい、楽しそうな日々を送っていた。

少しして私も仕事が忙しくなり、彼に連絡出来なかった。そして盆に帰省した時も、連絡しなかった。
旅の終わりのブログ以降、チェックもできていなかった。楽しかった旅が終わっても彼の笑顔が続いていると、信じていたかった。
暫くして、坂本くんが亡くなったことを聞いた。

何故盆に連絡しなかった?
何故メールをしなかった?
自分を責めました。
なぜなら、同級生を亡くしたことは、坂本くんが初めてではなかったから。
もう悔やまないようにとあれほど思ったのに、最期心を寄せられなかったことを悔やみました。
でも、連絡できたからと言って私に何ができたのだろう?
ただの自己満足なんじゃない?
いろんなことがグルグル頭を駆け巡りました。

暫くして、ご実家のお仏壇にお参りさせてもらいました。
お母様が迎えてくれて、手紙のことも覚えてくれていました。
「あの子は頑固だし言うこと聞かないしねぇ。
最期までやりたいようにやってたから」

今でも彼から聞いたいろんな話を思い出します。
彼は義足メーカーに入ったんですが、一方で車いすバスケの魅力にハマってしまって、のちに義足メーカーは辞めたそうです。
国体の映像は少しみたけど、結局生きているうちに彼の車いすバスケットボールのプレイを生で見ることはなかった。
スラムダンク世代のわたしたち、当時井上雄彦先生が描き始めていた「リアル」も読み始めたりして、車いすバスケ、面白そうと思いながらも、なかなか見る機会はありませんでした。

だから、今回パラリンピック中継で、ハイレベルな車いすバスケをテレビで見られたことは本当に嬉しくて、興奮したのです!
カッコ良かったし、すごかった!
坂本くんが魅了された車いすバスケはこれなんだなと、今更ながらに思います。

藤本選手は、私や坂本くんと同じ島田市出身。

藤本選手が地元で車いすバスケットボールを始めた頃は、まだ坂本くんもいたのでもしかしたら接点があるのかも?
そんな風に思いながら、応援していました。

坂本くんが生きてこの様子を見てたらなんて言うかな。
そんな風に、決勝戦を応援しながらふと思いました。
元気でいたら、現役選手は年齢的に難しくても、何らかの形で代表選手をサポートしていたかもね。
何にせよこの快挙を喜びつつ、何で俺あそこにいないんだろ、くらいの皮肉は言いそうだなぁ。

改めて、
日本代表車いすバスケットボール選手の皆さん、
彼らを支えるご家族、スタッフの皆さん、
本当に本当に銀メダルおめでとうございます!!
これからも車いすバスケを通して、障害を持つ人たちにも関心が寄せられ、思いやり溢れる社会が育っていきますように。

私にとってスポーツは音楽と同じくらい、たくさんの感動と勇気と、背中を押してくれるパワーがある。
ありがとう、オリンピックそしてパラリンピック選手の皆さん!!

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