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「たべきる」と「使い切る」

三浦哲也の『食べたくなる本』の,「おいしいものは身体にいいか」という表題の文章では,料理家の有元葉子の「暮らし」について語られている.本によると,有元は食を含めた生活全般を,「循環」の相から見つめ直そうとしている.土着のものを無駄なく使い切り,その食材のポテンシャルを最大限に発揮させる料理をし,冷蔵庫には不要なものはためない,食材の仕入れからゴミ出しまでをスムーズに循環させる.そこから食だけではなく,生活全体,身体も循環の相で捉えることで暮らしを構築していく.実際,常人離れした潔癖さで生活していた有元のことばが下記である.

大根でも豆でもなんでも、私たちの口にするものはすべて、命を与えられて世の中にあります。それを最後まで「たべきる」「使い切る」ことで初めて、そのものが生かされるー。

自分もそうです。自分自身も使いきりたい。「充分に生ききったね」と思ってもらいたいし、自分自身も「充分に使いきった。はい、さようなら」と思える人生が理想です。そのためには、ちゃんと食べて、ちゃんと動いて、健康でいなければなりません。料理も家事も人生も大事なことは一緒。要は自分を使いきることです。

三浦哲也『食べたくなる本』

これは98歳で慢性心不全,慢性呼吸不全のある女性が言ったことばそのものである.

この身体を使い切りたいんです,使い切って死にたいんです.これからわたしの身体がどうなっていくのか,見てみたい.

この二人に共通する凛としたたたずまい.誰にもよりかからず,死に対して正面から向き合う姿勢は,死を生の帰結として自然に捉える生き方を示している.

有元はまた、栄養学などの科学的なエビデンスよりも、自分の「身体によい」という感覚を重視する。栄養学的には同じでも、鶏肉は切り分けられたものではなく、丸鶏を買って自分で捌く。無駄なくすべてを利用できるように自分の手で解体し、使い切る。料理だけではなく、食材、キッチンや、着ている服や寝具、家、地域、そして地球環境まで、それらが「循環」しながら連動している状態を有元は想像しながら生活しているという。循環のモデルは科学的/医学的なモデルではないが,そこには直観的に真実が含まれている.科学はまだその「直観」に追いつくことはできていない.こうした,科学的ではないが,「循環」などの直観的な身体のモデルに則した医療が,補完代替医療(Complementary and Alternative Medicine; CAM)であると言えるのではないか.CAMは現代のメインストリームである西洋医学、人間の身体を臓器や細胞の観点から捉える科学的思考に乗っ取られた自分の身体を,患者自身に取り戻すための方法でもある.言うまでもなく食事療法や栄養の視点はCAMの一環として重要なものである.

同じ本から,栄養学を追求した料理家,丸元淑生の本を引用している.

それ(食事に気を配ること)で長生きをしようとは思ってはいない.命を粗末にしてはならないとおもっているだけだ.少なくとも食事が原因で病気になったり,寿命を縮めたりすることはないようにしようと努めているのである.

このエッセイは,「死」をテーマとし,「今日は死ぬのにとてもよい日だ」と題されている.プエブロ・インディアンの詩から取られたタイトルである.「今日は死ぬのにとてもよい日だ./あらゆる生あるものが私と共に仲よくしている./あらゆる声が私の内で声をそろえて歌っている」から始まるこの詩に,丸元は「死」の理想の在り方を見る.

三浦哲也『食べたくなる本』

食と死はつながっている.常に終わり方=死を意識した生き方がここにある.

患者が自分の身体を取り戻すための医療として,解釈学的医療というモデルが提案されている((https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3259801/)).解釈学的医療では,医師が主導権を持つ科学的な医学モデルではなく,患者が主体的に自分の身体をコントロールしていくことをサポートする.そこでは医師が疾患を発見しそれを治療するのではなく,医師と患者の探索により病の体験を共有,解釈し,患者が自らの日常生活を維持する上でのCreative capacityをサポートすることを重視する.Creative capacityとは,病の中にあっても,病が個人の生活にもたらす破壊的な影響に対し,身体的,心理的,社会的に適応することによって,自己を創造していく能力のことである.つまりCarrelのいう「病の中にあっても健康である」状態である(((PDF) Can I be ill and happy?))

解釈学的医療は患者との合意によって形成されることから,純粋に科学的であることはありえない.もっというと医学ではなく,医療は当然ながら科学的なだけではない.解釈学的医療にCAMを取り入れることは患者の主導権を保証する上でも自然な選択だと思われる.

しかしCAMはしばしば,個別の体験を一般化しようとしがちであり,迷信に近いものになることもある.ある友人は,身体の不調を訴え医療機関を受診し,あらゆる検査をした後になにも悪いところはない,と帰された.医療に見放されたと感じた友人は,なにもしてくれなかった医療に呪詛を吐き,自分で代替医療をはじめた.このような医療不信を招かないためにも,解釈学的医療の視点が重要である.

西洋医学とCAMの融合とも言える統合医療を提唱するアンドルー・ワイルは,古代ギリシャの医師たちについて書いている.

古代ギリシャ時代,医師たちは「医神」アスクレピオスの庇護のもとで仕事をしていた.しかし,ヒーラーたちはアスクレピオスの娘にして輝くばかりの美しさで名高い「健康神」ヒュギエイアに仕えていた.思想家で医事評論家でもあるルネ・デュボスはこう書いている.

ヒュギエイアを信じる者にとって,健康とはものごとの自然な秩序のことであり,自己の生命を賢く制御した人にあたえられる無条件の属性である.彼らによれば,医学のもっとも重要な機能は,人に「健全な身体に宿る健全な精神」を保証してくれる自然の法則を発見し,それを人々に教えることである.彼らよりも懐疑的,もしくは世俗的な意味で分別のあるアスクレピオスの信奉者は,医師の主要な役割は病気の治療であり,誕生や生にまつわる偶然が引き起こすなんらかの欠陥をただすことによって健康を回復させることであると信じていた.

アンドルー・ワイル『癒す心、治る力 』

ものごとの自然な秩序を維持し,自己治癒力を伸ばすCAMは,西洋医学に欠けている視点をもたらしてくれる.現代にもヒュギエイアに仕える医師が必要である.

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