中沢新一+中川大地編著『ゲーム学の新時代』より、遊戯の原理が描きなおす人類史とその未来や、AI研究をアップデートするデジタルゲームの成果など、いま注目のゲーム学の新局面をご紹介。
ゲーム研究の第1人者から気鋭の論者・クリエーターまで多彩な書き手を結集した話題の論集『ゲーム学の新時代』が刊行されました。本書のまとめとなる中川大地さんの論考から一部抜粋・公開いたします。〈遊び〉と〈人生〉が融合しつつある人工知能時代の人類社会を展望する、ゲーム学の可能性の一端にぜひ触れてみてください。
(書影をクリックすると、4月6日(土)青山ブックセンター本店で開催する、本書刊行記念イベントの情報へジャンプします)
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遊戯の原理、AIの野生、拡張するリアリティ
中川大地
なぜいま、「ゲーム学の新時代」が宣言しうるのか。その「学」としての定立が、私たちに何をもたらすのか。特にデジタルゲームにコミットしていない分野外の人々に対して、ゲームについての知的探求は、どのような社会的意義を提供できるのだろうか。本書を締めくくるにあたり、それは避けては通れない問いであろう。
筆者が〈複合現実の時代〉▼1の幕開けと位置づけている2020年を間もなく迎えようとする現在、インターネットの普及がもたらしたディープラーニング以降の第三次AIブームによって、現在の社会思想では未来学者のレイ・カーツワイル等のシンギュラリティ▼2論への是非が共有されるようになり、幅広く人口に膾炙するようになっている。米欧主導のリベラル・デモクラシーの理念の結晶としての解放的なIT思想であるカリフォルニアン・イデオロギーが、資本主義のオルタナティブ運動としてのマルクス主義に代わって世界を変えてきたのがこの半世紀の流れだったが、卑近な流れとしては中国の国家主導のIT化でデジタル・レーニン主義が台頭しようとしていることが、テクノロジーのもたらす将来像に不安を与えている。
日本の国力の低下も、いわずもがなだ。世界史的には冷戦後の国際社会の変動期であった平成の30年間が、端的に〝失敗〟の年代として総括されながら、諸国に先駆けて未曾有の人口減少時代を迎えていくことになるにあたって、先の見えない危機感と閉塞感のもとに、新たな「未来」像を模索することが時宜となっている。
こうした当世の未来学のスタンダードになっているのが、『サピエンス全史』『ホモ・デウス』で世界的ベストセラーとなった歴史家ユヴァル・ノア・ハラリの議論であろう。人類学を中心とする最新の人間諸科学の知見を総合し、文明の発展と人類の過去と未来を巨視的なスパンで見据えた彼のアジェンダ・セッティングの洞察は有益だ。
そこで提示された、7万年前に起きた認知革命以来の農業革命、科学革命といったいくつかの転換点を経て、人類の多くがテクノロジーの管理者としての「ホモ・デウス」か、ビッグデータの提供者として管理される「無用者階級」かに分断されるといったペシミスティックな描像は、たしかに容易に否定しがたい説得力を持っている。
ただ、本書で各執筆者たちが展開したゲーム研究における様々な議論や知見は、そうした未来像とは別のシナリオを示唆する方向にも接続可能な芽を懐胎しているようにも思う。本稿では、ハラリの枠組みを補助線に、汎用的な未来学としてゲームの学が活用しうる可能性を、ここまでの各パートの論考を通じて展開された議論を下敷きにしながら検討していきたい。
1 「遊戯の原理」からの示唆──ゲーム・スタディーズから人類史を捉え直す
認知革命から始まったフィクションとルール構築の相互作用
まず、ハラリの『サピエンス全史』が邦訳された同じ2016年に「文明の遊戯史観」と銘打った書を上梓し、人類文化のある本質を「遊び」に見出すホイジンガのホモ・ルーデンスの現代的継承を試みた立場として、それがいかなるオルタナティブでありうるのかを明らかにするところから始めたい。
ハラリの史観の根本にあるのが、「虚構」というテーゼだ。すなわち、記号作用によって現実に存在しない事物を指し示して物語を構築して共同主観的に集団を統合していく認知作用であり、現生人類が文明を形成してきた根源にある力だと説明されている。特にそれが農耕社会の文字化によって再帰的に強化されていき、大規模な宗教や国家といった社会制度を形成することにつながっていると説いているのだが、この説明過程で、ハラリがしばしば「ゲーム」という表現をしている点に注目したい。例えば、次のような箇所がそうだ。
認知革命以降の生物学と歴史の関係をまとめると、以下のようになる。
a 生物学的特性は、ホモ・サピエンスの行動と能力の基本的限界を定める。歴史はすべてこのように定められた生物学的特性の領域[アリーナ]の境界内で発生する。
b とはいえ、このアリーナは途方もなく広いので、サピエンスは驚嘆するほど多様なゲームをすることができる。サピエンスは虚構を発明する能力のおかげで、しだいに複雑なゲームを編み出し、各世代がそれをさらに発展させ、練り上げる。
c その結果、サピエンスがどう振る舞うかを理解するためには、彼らの行動の歴史的進化を記述しなくてはならない。私たちの生物学的な制約にだけ言及するのは、サッカーのワールドカップを観戦しているラジオのスポーツキャスターが、選手たちのしていることの説明ではなく、競技場の詳しい説明を聴取者に提供するようなものだ▼3。
ハラリはここで、集団的なイデオロギーとしての虚構を基盤にして、人間が人工的に作り出したルールや制度の比喩としての「ゲーム」が成立する構造を指摘しているものの、この論点がその後の彼の歴史叙述の中で掘り下げられることはなかった。
対して、本書の松永伸司論考▼4で紹介されている現代のゲーム・スタディーズの潮流は、「ゲーム」と「虚構」が互いに独立な機能を持ちながら、複雑な関係を孕んでいることを示唆している。特にイェスパー・ユールや松永などは、ビデオゲームという芸術形式の特徴となる意味論的構造を、創作者が制作したフィクション(虚構世界)としての側面と、プレイヤーに「半分現実[ハーフリアル]」の経験をもたらすものとしてのルールないしゲームメカニクスの側面との二重性を持つものとして記述している。したがって、古典的なゲームとデジタル技術がもたらしたビデオゲームの定義を統一的に扱い、基本的な哲学的記述を提示しようとするこの枠組みは、人間の認知システムがいかに共同主観的に現実を写像し、神話や社会制度といった社会文化的な情報システムを形成してきたかのメカニズムに迫るための、ベーシックな説明原理としての拡張可能性も備えているのではないだろうか。
順を追って見ていこう。まず、ここでいうフィクションとは、主に図像や言語など現実に存在する視聴覚情報を記号として用いながら、実際には存在しない事物を人間社会内のコミュニケーションの中で共有し、空所を補完しながら心的現実として構築していく作用である。このフィクションの構築原理について、哲学者・美学者のケンダル・ウォルトンは「ごっこ遊び(メイクビリーブ)」的な活動をするための「小道具(プロップ)」であると説いている▼5。
これは、より古典的なロジェ・カイヨワの分類からの脈絡に即せば、遊びにおける〈模擬[ミミクリ]〉の要素がいかに成立しているのかの機序を、より詳細に記述しようとした試みと位置づけられるだろう。本書の井上明人論考▼6でも参照されているように、ホモ・サピエンスの揺籃環境とされるアフリカ熱帯雨林に生きるバカ・ピグミーなどの狩猟採集民のフィールドワークからは、狩猟などの生業や衣食住にまつわる営みの模倣を通じて多種多様な遊びが発生していることが報告されている。
さらに、神経生理学的には〈模擬[ミミクリ]〉よりもさらに基層をなすと思われる、歌や踊りなども含む身体運動的な〈眩暈[イリンクス]〉の遊びとの結合▼7の中で、ウォルトン的なメイクビリーブが形成され、やがてアニミズムやシャーマニズムに連なる儀礼や芸能・演劇という形式でフィクションを表現する民俗文化が発達したのであろうことは、ごく自然な発生過程として推察可能だ。
一方で、ビデオゲームの意味論を構成するもうひとつの側面である、プレイヤーの現実の行為を促す担体としてのルールやゲームメカニクスをどう捉えるかについて、松永は哲学者ジョン・サールの理論に依拠しながら、「なまの事実」を構成的規則によって人為的に意味づけた「制度的事実」と同等の存在論的身分のものとして理解可能だと主張している▼8。このことは裏側から捉え直すなら、むしろ社会にあまねく存在する制度なるものが、遊び一般の中でもルールや挑戦課題の社会的な共有を通じて発展したであろうゲームという営みの成立と、発生論的には同型の認知プロセスによって形成されていったのではないか、という推測を可能にさせる。
こうしたサール的な構成的規則や統制的規則によってヒトが現実の事象を間主観的に分節化し、明示的な制度としてルール化していく認知能力に依拠しながら、カイヨワにおける〈競争[アゴン]〉と〈運[アレア]〉の遊びの結びつきとして勝敗のような価値の取り決めを制度化していく〈闘技[ルドゥス]〉型の社会が成立していったのだと、古典的な概念を再定式化していくことができる▼9。
ホモ・サピエンス以外の霊長類やヒトの子供を対象にした遊びの観察事例からも、とりわけチームでルールの取り決めをして何らかの競い合いをする遊びは、言語能力が高度に発達した段階でのヒトにおいてしか観察されていない▼10。このような人類学における経験的事実からも、〈競争[アゴン]〉〈運[アレア]〉型の遊びが優勢になっていく社会を〈眩暈[イリンクス]〉〈模擬[ミミクリ]〉型の社会よりも後発の段階のものとして捉えようとするカイヨワの文明史的な素描は、一定の説得力を持っているように思う。
以上まとめれば、ハラリが認知革命の要諦として規定したホモ・サピエンスの間主観的「虚構」の作用とは、大きくはウォルトン的なメイクビリーブに依拠するフィクション生成の力と、制度的事実を構成していくサール的なルール構築の力との、少なくとも二つの別種の心的作用によって成り立つものであると理解すべきであろう▼11。
農業革命が変えた“プレイ”
そして、ハラリがその後のサピエンスの文明史の転換点として描出する農業革命や科学革命の性格についても、デジタルゲームの美学的な分析と同様、フィクションとルールのある種の相互作用として理解していくことができるのではないだろうか。
すなわち、狩猟採集社会よりも大規模で厳格な統制が必要になる農耕社会にあっては、人々を実際的な労働に従事させるための「規範」や「規則」といったルールによる制度を内面化させるための仕掛けが必要になる。そのためのツールとして、狩猟採集社会における口承などとは段違いの強力な表象固定機能をもつ文字のような記号列が開発され、石版や木簡、紙といった外部記憶媒体を用いて固定化することで、ダンバー数▼12をはるかに超える数の成員間での情報の共有が可能になった。これにより、人間の脳では安定的に保持不能な規模の細密な生活上の規範や規則を法典として固定化したり、権力者の統治を正当化するような王権や宗教的権威を説明づける体系的な神話を様々な儀礼や文化芸術を通じて民衆に浸透させたりする、ルールとフィクションの混成物としての国家や宗教、あるいは貨幣経済といった文明装置が、およそ1万年ほど前には、はっきりと姿を現すようになる。
この段階におけるフィクションは、もはや現実の利害とは切り離された「遊び」としての戯作や絵空事ではない。むしろ人々の現実的な労苦などの「まじめ」な経験に対して、たとえば「大いなる神の試練」「来世で救済されるための功徳」といった物語的な意味を与えることで受忍可能なものにするための、いわば認知的な適応装置としての機能を強めていく。つまり、ゲームのルールと同様の存在論的身分をもつ複雑な社会制度と重ね合わせるようにして、入念にメイクビリーブされた信仰世界のフィクションを体系的に構築することで、古代から中世にかけての文明社会に生きる人々のリアリティは、さながらロールプレイングゲーム(RPG)のようなハーフリアルとして構築されていたのだと言えるだろう。
ただし、遊びとしてのRPGが基本的にはプレイヤーが適度な努力で挑戦課題を克服できる程度の難易度でデザインされているのに対して、古代や中世の庶民が直面したであろう生老病死の現実は、多くの者にとって明確な勝利や成功の幸福を命あるうちに経験することなどは望みえない、圧倒的な苦しみと理不尽に満ちたものだったはずだ。それゆえ、そんな〝無理ゲー〟としての人生の現実に重ね合わせる宗教的なフィクションは、RPGのように神々や英雄の立場に自己同一化しながら直にプレイ(play)する方向で扱うというよりも、あくまでも自らとは隔絶された存在として敬して遠ざけながら祈り(pray)の対象としつつ、現世での達成は半ば諦め(あるいは執着を戒め)、利益や救済への期待を死後に延期するような規範を植え付ける方向で発達していったのだと考えられる▼13。
このように高等宗教におけるフィクション運用の作法は、現実の事物をプロップとして仮構されるメイクビリーブの世界観によってプレイヤー(player/prayer)に自己目的的な行為のための動機付けをするという意味では、原初的な遊びと通底しているものの、(古典的)ゲームのように挑戦課題の主体的克服を目指す〈競争[アゴン]〉型のルールシステムではなく、現実の予測統御の不可能性たる〈運[アレア]〉の受忍を心がける戒律型のルールシステムと結びついている点に、決定的な違いがある。この違いから、ホイジンガやカイヨワの遊戯論においての中心的な論点でもあった「聖―俗―遊」の三項関係を再解釈していくことも可能だろう▼14。
科学革命という“チート”
さらに、西欧世界がアラビア経由でギリシャの自然哲学を継承した12世紀ルネサンスから17世紀のガリレオ、ニュートンの時代に至る科学革命を経て、フィクションとルールの関係は新たな結びつきを見出すことになる。近代科学の母体となった学問体系は、あくまでもスコラ学や錬金術のように、言語的な記号操作によって宗教的な信念に基づくフィクションを精緻化していくものでしかなかったと言えるが、しだいに観察と実験によって自然のありようを実証的に記述していくための新たな制度として変貌を遂げていく。とりわけ数学という自然言語よりもさらに厳密な概念構築と論理操作の便に適した記号体系との結合によって、物理的現実を分節・数量化しながら写像していく記述方法が全面化したことで、それまでは不可知だった自然の潜在的な「法則(メカニクス)」が、まるでゲームのルール体系のような形式で抽出できるようになったためである。
これにより、従来は〈運[アレア]〉への忍従を基盤とした宗教的権威のフィクションとの接続によって世俗社会の規範や規則を基礎づけていた中世社会のルールシステムとそれに従っていた人々のメンタリティは地殻変動を起こし、さしずめ「現実のメカニクスを写像するフィクション」を不断に更新していくルールシステムへのモードチェンジが開始される。かくして人類は、それまでの神話や宗教とは桁違いの予測・統御性能をもった世界像を手中にし、合理的なプレイヤーとして現実の諸困難を攻略していくゲームに挑むという、究極の〈競争[アゴン]〉型文明としての近代が姿を現すことになる。
こうした見立てを敷衍すれば、科学革命の成果を応用したテクノロジーによる18世紀の産業革命以降の人類文明の急激な発展は、メタルールとしての自然法則のメカニクスにアクセスし、他の生物種とは異なるルール水準で生存ゲームの利得を最大化しようとしている点で、ある種のチート行為として捉え直すことも可能だ。実際、その環境改変力の大きさゆえに、20世紀後半には公害や資源の枯渇危機、温暖化による気候変動、生物多様性の衰亡といった事態が表面化し、人類自身の持続的な生存すら脅かしかねない生態系の危機を招いているという認識が支配的になって久しく、近年ではこの変動を完新世に次ぐ地球の新たな地質年代「人新世」として捉え直そうとする議論へと発展している。
はたして本当に人類の文明活動の影響が地球の地質年代レベルを画するほどにまで及んでいるのか否か、実証的に評価するのは困難だが、少なくとも人類自身の自覚において、ゲームフィールドとしての地球生態系のメカニクスバランスを毀損することが、プレイヤーとして〝守る〟べき規範の問題として浮上していることは間違いない。つまり裏を返せば、人類にとってゲームメカニクスのコア・カーネルとしての物理化学の法則や地球の惑星科学レベルのシステムそのものを〝破る〟ことは原理的に不可能だが、そのカーネル上に実現されている生命圏のエコシステムについては、意識的に遵守したり侵犯したりすることのできる「ルール」に近いものとして存在していることになる。ゆえにこそ、現実世界におけるテクノロジーの濫用は、デジタルゲームにおけるチートとアナロジカルな構造を備えていると言えるのである。
なお、ここで見たような〝チーター〟としての人類の地球環境におけるプレイアビリティの増大を、ハラリは世界の根本摂理としての一神教的な神ではなく、あくまでも地上界の自然現象を部分的に司る程度の権能に留まる多神教の神になぞらえる視点から「ホモ・デウス」と呼び習わしている。ギリシャ神話や日本神話など、多くの多神教の神話が人間くさい感情のもつれや愚行のエピソードによって彩られていることからも、それなりに納得感のある描像ではあろう。
だが、彼が『サピエンス全史』で提出した人類学の定説に基づく狩猟採集社会の再評価や、人間の家畜として生態学上の〝勝者〟になったはずのブタやニワトリたちの悲惨なクオリティ・オブ・ライフへの関心など、その史観の根本にある人間至上主義や単線的な進歩主義への懐疑を、このレトリックは充分には伝えきれていないように思う。ハラリの立場はあくまでも歴史家として自身の信条や願望を交えることなく、認知革命以後の人類が向かってきた文明史的慣性の帰結をフラットに描出することではあるが、結局のところは科学合理主義に基づく進歩の追認に終始し、(それを望ましいユートピアとして描くか皮肉なディストピアとして描くかはともかく)ヒトの精神が神の全能性に近づいていくという予定調和的な描像をしか喚起しえないためだ。
そうした単純さに陥ってしまう根本的な理由は、ハラリが人類史の駆動因を人間が共同主観的に構築してきた世界像(フィクション)の肥大と高度化にのみ求め、ここまで見てきたようなルール/メカニクスとの相互作用という発想に欠けているため、プレイヤーが現実のリソースの有限性を受け入れ、その不足と戯れながら最適を目指してゆく「ゲーム」としての側面を充分に捉えきれていない点にある。図像や言語をプロップとするフィクションは、人間の想像や妄想が及ぶかぎりは、神への信仰であれ世俗的な自己実現であれ、どんな世界でも無限に表象可能だ。対してゲームとは、物理世界や身体のメカニクスに拘束されながら、社会的にルールを取り決めていくことで、現実の行為をデザインしていくことに他ならない。
したがって、フィクションとゲームが交錯する場合、基本的にゲームとしての側面は、フィクションが志向する全能性への制約として作用する。例えば、神話の英雄が竜退治を成就させる物語を題材にしてゲームを作る場合、それは戦闘ルールに基づく判定によって、物語には描かれなかった失敗の可能性を付与するものとなるだろう▼15。このような現実の実践における不確実性との対峙が、予定調和では済まない複雑系としての人生や歴史の創発性をもたらしてきたことは明白だ。ハラリが本心では希求していると思しき、より多様な可能性に開かれた未来史のダイナミズムもまた、むしろフィクションとルール/メカニクスの葛藤としてのゲームをこそアナロジーに据えてこそ、より説得的に把捉できるのではないだろうか。
2 デジタルゲームの進化が示唆する未来像──ポスト・ヒューマン社会の具体像をめぐって
コンピュータビデオゲーム登場の意義
以上、フィクションとルール/メカニクスの二重性に注目する現代ゲーム・スタディーズのハーフリアル式のモデル化を適用することで、20世紀終盤にコンピュータビデオゲームという芸術形式を生み出すに至ったホモ・サピエンスの共同主観的な世界認知の構造、およびその帰結としての文明史の流れを逆算的に素描した。
改めてまとめれば、ハラリの言う認知革命によって、現生人類の脳神経系における環境情報の模倣やシンボル操作能力が一定の閾値を越えたことで、知覚した事物を何か別のものに見立ててフィクションを構築する心的能力と、個体間でルールを共有して組織的な行為を創発する心的能力とが、両輪となって発達。狩ゲーム猟や採集のライフスタイルに連なる遊びを通じて相互作用していくようになる。農業革命以降は、民族規模のフィクションによって基礎づけられた高度な規則や慣習といったルール体系を固着化し、集団労働を統制する宗教・法・交換経済などの文明システムが発展。さらには科学革命によって、社会を基礎づけるフィクションを現実のメカニクスと不断に整合させていく近代科学という世界観更新のルールができたことで、それを応用したテクノロジーによって人類の生存圏と環境の可制御性を最大化しようとする近現代文明が成立するという流れである。
このような描像が可能になったのは、ひとえに物質・エネルギー次元での人類のプレイアビリティを極大化させた現代物理学の徒花として、情報科学が20世紀後半に大きく発展したことに依る。つまり、ジョン・フォン・ノイマンやアラン・チューリングらの理論によって、数学計算によるシミュレーションを自動化するコンピュータ技術が実現したことで、現実世界のメカニクスのありようを部分的ながら再現できるようになったためだ。
その当初の発展は、フォン・ノイマンらが確立したゲーム理論で記述されるような、一定のルールの下でプレイヤーが自己の利得の最大化(勝利)を目指す古典的なゲーム的状況において、いかに最適な戦略を探索するかというトライアルによって担われた。具体的には、ニムや三目並べといったシンプルな論理計算によって必勝法の手順が解析できる相互手番制のゲームで人間と競い合えるようにすることを目標に、最初期のコンピュータのいくつかは開発されている。ちょうど現生人類の文化や文明が狩猟採集民としての遊びの中で育まれたように、揺籃期の情報機械の進化は、ノイマン型の論理ゲームで人間と同じルールを共有して遊べる相手となることから始まったのである。
一方ではこれが、人工知能(AI)と呼ばれる技術カテゴリーの起点でもあることは、言うまでもないだろう。本書の三宅陽一郎論考▼16は、このように人間側の遊びと対の存在としてあるAI研究の立場からゲーム学の研究領域を捉え直したものであり、ここまでの議論に対して、ちょうど同じ山を反対側から登るような対称的なアプローチにあたる。
かくしてコンピュータ技術の誕生にともない、AIと共に姿を現したコンピュータゲームは、やがてビデオ装置がインターフェイスとなることで図像やテキスト、さらに田中治久(hally)論考▼17で考察されているサウンドといったプロップを動的に出力可能になり、虚構世界を表象するのに充分な視聴覚表現の領域を確立する。これにより、コンピュータがプログラムに従って生成するゲームメカニクスと、ユーザーたる人間の見立て能力に依拠したフィクションとがダイレクトに重ね合わされる、現実に似たインタラクティビティをもつ芸術形式として発展を遂げていくことになる▼18。とりわけ1980年代以降、アメリカとならんで日本のビデオゲーム産業が世界を席巻。遠藤雅伸による基調報告▼19にあるように、ノイマン型のゲーム理論的なゲームの枠には収まらない多様な遊び体験のレパートリーを大きく拡張していく役割を果たした。
そのジャンルとしての発展は、絵画や小説、音楽、演劇、映画といった既存の近代的な芸術形式に比して、商業流通される消費物としての性格により強く依存し、またメディアフレーム自体のテクノロジーが急激に進歩・多様化を遂げた点を特徴としている。そのため、文化資産・研究資源としての体系的なアーカイブ化には大きな困難が伴い、細井浩一▼20、川口洋司▼21、ルドン・ジョゼフ+ルドン絢子▼22の各論考で語られているように、産学民それぞれの立場での収集・保存と連携が模索中だ。
そして2000年代初頭あたりからは、小林信重論考▼23で指摘されているフィンランドなどの主導によって、ビデオゲーム独自の表現様式への研究と理解が世界的に進行し、特に独立系の制作者たちが、内容・形式両面で多彩なゲームデザイン上の挑戦を行うようになってきている。例えば、かつては指揮官の立場から歴史上の戦争を模擬する机上演習型のウォーストラテジーゲームが支配的なスタイルとして確立されていたが、フィクションとゲームメカニクスの組み合わせの案配により、きわめて多様なアプローチから歴史や戦争の現実性をシミュレート可能になったことは、徳岡正肇論考▼24で語られている通りである。
この過程で重要なのは、福地健太郎論考▼25で検討されているように、仮想現実としてのコンピュータビデオゲームの成立によって「規範」「規則」「法則」の区別が曖昧化し、人為的な制度としてのルールと自然現象のシミュレートとしてのメカニクスがシームレスなものになったことだ。同稿でも指摘されているように、20世紀末から21世紀にかけてのインターネットや携帯端末の普及によって、このことは単にデジタルゲームの表現特性に留まらず、社会生活を規定する情報インフラそのものの特徴へと拡大しつつある。その意味で、水野勇太論考▼26で紹介されているデジタルゲームの複雑化が要請した〈メタAI〉という技術カテゴリーの発達は、やがて人々のライフスタイル環境の統合調整メカニクスに発展するポテンシャルをも秘めていると言えるだろう。
注
▼1 中川大地『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』(早川書房、2016年)では、第二次世界大戦が終わった1945年を起点に、15年ずつに時代を区分する社会史的枠組み、すなわち〈理想の時代(1945−1959年)〉〈夢の時代(1960−1974年)〉〈虚構の時代(1975−1989年)〉〈仮想現実の時代(1990−2004年)〉〈拡張現実の時代(2005−2019年)〉というカテゴライズで日米のゲーム史を整理している。それに続く2020年からの時代を、複合現実(Mixed Reality)にちなんでこう呼んでいる。
▼2 人工知能の進歩が人間の知性を凌駕してテクノロジー自体が自律的な進化を始めるようになり、以降の社会や文明の変化が人類には完全に予測不可能になるとされる技術的特異点。カーツワイルの著書『ポスト・ヒューマン誕生──コンピュータが人類の知性を超えるとき』(井上健監訳、小野木明恵・野中香方子・福田実共訳、NHK出版、2007年[原:2005年])では、2045年に到来すると予測されていた。
▼3 ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上)──文明の構造と人類の幸福』柴田裕之訳、河出書房新社、2016年[原:2014年]、57頁
▼4 本書46−66頁
▼5 ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か──ごっこ遊びと芸術』、田村均訳、名古屋大学出版会、2016年[原:1990年]
▼6 本書29−45頁
▼7 筆者はこのミミクリとイリンクスの結合様式を、カイヨワ自身が遊びの内容についての四分類とは別に、遊びに対する心理的な態度についての独立の概念対として提示した〈遊戯(パイディア)〉に相当するという独自の解釈を施している。詳しくは中川前掲書を参照。
▼8 松永伸司『ビデオゲームの美学』、慶應義塾大学出版会、2018年
▼9 中川前掲書
▼10 島田将喜「遊び研究の〈むずかしさ〉と〈おもしろさ〉 動物行動学からみた系譜」亀井伸孝編『遊びの人類学ことはじめ──フィールドで出会った〈子ども〉たち』所収、昭和堂、2009年、21−37頁
▼11 ただし、両者の心的作用を原理的には区別せず、例えば成瀬翔「虚構の社会──メイクビリーヴ説の社会哲学への応用」(日本福祉大学全学教育センター紀要 第5号、2017年3月)のように、サールにおけるなまの事実/制度的事実の二重構造を、ウォルトン的なプロップ/虚構世界のそれの延長線上にあると解する立場も存在する。しかしながら、遊び研究やゲーム・スタディーズにおける議論の脈絡を踏まえれば、哲学記述レベルの同型性以前に、やはりそれぞれ異なる認知科学的・神経生理学的レベルの機序によって作動している(フィクションはより身体的な模倣作用が、ルール構築はより社会的・言語的な知能の痕跡が顕著)と考えられるため、ここではあくまで別作用として扱う。
▼12 人間が社会を形成する際、認知的に無理なく集団を維持できる最大限のサイズとされる人数。人類学者ロビン・ダンバーが提唱した。およそ150人とされ、多くの狩猟採集民の村落や自給自足規模の農村、遊牧民などの平均的なサイズとして経験的に支持されている。
▼13 ただし、よりコンパクトで達成感の得やすい狩猟採集的なマインドの残る社会であれば、むしろRPG的なミミクリ=イリンクス型のイニシエーションや祝祭を通じて、自分たちのルーツに連なる祖霊・英霊や自然の精霊と一時的に自己同一化し、その超自然的な力を取り込もうとする傾向が強くなると思われる。
▼14 現代的な遊び研究の脈絡でホイジンガとカイヨワの重要な対立点である「聖」をめぐる論点が掘り下げられることは滅多にないが、橋迫瑞穂「「聖」なるものへの「橋」──ホイジンガとカイヨワによる「遊び」概念の再検討」(ソシオロゴス 第31号、2007年、99−115頁)では、「俗」を脱して「聖」に接近するルートを示すエリアーデの「橋」概念を用いながら両者のスタンスの違いが読み解かれている。その目的は、1980年代以降の日本における「聖」のカジュアル化としてのスピリチュアルブームの本質を捉えることだが、これをポスト近代社会におけるデジタルゲーム隆盛の並行現象として見ると、消費社会に駆動された現代的な「聖−俗−遊」の再編の諸相が理解できる。
▼15 イェスパー・ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する──悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』、株式会社Bスプラウト訳、ボーンデジタル、2015年[原:2013年]
▼16 本書222−245頁
▼17 本書174−188頁
▼18 中川前掲書
▼19 本書12−26頁
▼20 本書87−108頁
▼21 本書109−126頁
▼22 本書127−144頁
▼23 本書67−83頁
▼24 本書147−173頁
▼25 本書205−221頁
▼26 本書189−203頁
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