東海村

東海村で数日を過ごしたわけだが,これまで単身での外泊は1泊しかしたことが無かったため今回は色々と新しいことが多かった.洗濯と食事を独りで解決しないといけないのが最たる例で,親やホストファミリーのありがたみが身に染みる.
加えて一人暮らしで健康的な時間に寝ている人を尊敬せざるを得なくなった.夜とか23時をまわらないとお腹は空かないし風呂なんて2時を過ぎないと入る気がしない.

地域としては想像以上に田舎という印象かな.街頭もあるのだが頻度が郊外とはまったくもって違うし畑が多いのでかなり暗い場所があり,そこから見上げる月の美しさは昔に秩父でキャンプをした頃を思い出す.しかしスーパームーンだったらしくほんのりと優しい明るさを感じて幸せでもあった.畑の奥の山から覗く月をみていると郊外に住み日中は都会にいる生活の一切は虚構だったのではないかとさえ思えた.
引っ越しの予定がじりじりと迫っていて,さっさと私を鬱屈とした量産された住宅地から連れ去ってくれないかななんて期待している.引っ越し先は空襲の被害も受けていない地域で観光地でもあるし,かなり好きな街並みで更に山がみえ自然も豊かで楽しみで仕方がない.それで物足りなくなったら東京に戻ろうかな.その頃には都心の郊外化が完了していそうだけれど.

ファミリーレストランに初めて行った.週末に行ったのだが家族で食事をする人が何組かいて驚く.中学生の頃に初めてファーストフードを食べた記憶が蘇る.牛丼屋にも初めて行った.そこにいる男性の髪型や服装が都会では中々みないもので迫力を感じる.

地震が数回あったのだが家にいた頃とは危機感が雲泥の差だった.私の家は地盤が硬いところにあったり川や海が側になかったり戸建てだったりと地震に強かったため多少揺れてもTwitterを開いて楽しむくらいだったが,やはり原子炉が近くにあるとなると話が変わってくる.なんなら施設内にいたときに揺れたこともあったのだからそれはそれはヒヤヒヤした.
この辺に住んでいる人はすごいな.いやしかしそれを承知で住んでいるはずなわけだ.それなら原子力施設への反対の看板を掲げるのはどうなのだろうか.

原子力科学館にも行った.専門が原子力ではないので新しく知ったことも多く楽しめた.ただ「この展示は調整中です」だとか「この展示は終了しました」という紙が結構な量を貼られていて残念だった.特に子供が喜ぶであろう視覚的に楽しい動く展示が多く該当していて教育効果としてはいまいちになっていそうに思えた.国立博物館のクラウドファンディングのような大きなものは目に止まるが地方の科学館の状況などは把握しにくいものだ.展示内容についてはJOC臨界事故とかが面白かったくらいで後は割と普通の科学館という感じだった.ウランガラスとか放射光照射して色の変わったグラスとかをみられたのはうれしかったけれど.

好文亭にも行った.襖と欄間で繋がった絵は慣れ親しんだ襖と迫力が違った.なんだか4dxの映画にある価値とはこういうものなのではないかと感じ,近いうちに観にいく決意を新たにした.あと畳と板張りの部屋を挟んで花頭窓(もちろん通れるわけでガラスなどはない)が設置されていて驚いた.かなり趣の違う部屋であったし空気感を変えるための仕組みだったのだろうか.ただ高さが異様に低く1500mm程度しかあらず驚く.3階なんて全体的に屋根が低く暮らしにくて仕方がないのではと感じたが昔の人は総じて背も低いだろうし構わないのだろうか.

帰りは当然のように東海駅を利用するわけだが本数が少なく待合室で時間を潰していると中学生が大勢みえる正午前,制服だからこそ中学生とわかるわけだが恐らく東海中学の方々でとすれば帰り道だろうか.夏休みが終わってから数日は午前で終わりみたいな仕組みなのかもしれない.いやしかし最近は変な時間に中高生を見ることが少なからずある.品川の方にいた頃も10時とか14時とかの明らかに授業中に思える頃に毎日のように品川女子のカーキの制服をみていた.思えばコロナ以降にこの傾向は強くなったように思う.柔軟になることは良いことで生徒や学生は自由に時間の使途を選べるようにある世界が好きだな思う.いや社会人でもそのようにあってほしいがこれは理想が過ぎて非現実的なわけだ.

内陸に帰ってみると相変わらず暑くて驚いた.地震や津波のリスクしかない湾岸に住む人々をリスクリターンを考えられない人とレッテルを貼っていたのが情けない.両方を体験してみると確かにいつ起こるかわからない地震よりも心地よい海風を取る人が少なからずいても理解できる.

移動距離に経験値が比例するといった眉唾な自己啓発的な主張も否定はできないのかもななんて思えるようになった.しかし比例はせずに何らかの位置に漸近しそうに思える.

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