初鹿野ことな

モニターから左下に目を遣ると空気清浄機がみえる.自意識過剰で自身への理想が強い私がこれを買えたのは奇跡に近い.

鼻炎が在るので空気清浄機を買おうかと思っていますが空気清浄機を持っている自分が私で無いように感じて躊躇しています
youtubeの配信で初見ですとかをカキコ出来ないのと同じ心情です
助けてもらえますか?

(今ならもう少し美しく書けるのになんて感じる文章なわけだが,)このマシュマロへの彼女の返答は

そこで活かせるのはやっぱり妄想力なんですよね、想像力だと思います
例えば自分の頭の中で陰気臭い男が空気清浄機を買って、その空気清浄機をダラーっと眺めているというようなTwitterでバズりそうな構成の漫画を一生懸命考えるんですよ。
そういうところで一生懸命考えると自分が空気清浄機を持っているのもいいなという風に思えるんですよね。
つまり、自分が憧れる対象に空気清浄機を置く必要があるんですよ。

と極めて私好みだった.買うに至ったは助言に従い宮田くれあの日常を想像し憧れたが故で鼻炎も多少はよくなり感謝してもしきれない.

7月末は小沢健二 東大900番講堂講義の出席可否のメールが来ないなと悶々としていた.
31日の16時頃にはTwitterで出席を認めるメールが届いたと言っている人がおり,あぁ私は落ちたのだな,人生に於いて落ちるという経験は初めてだなと思い陰鬱な日々の幕開けを思わせた.しかし,その数時間後には参加を認めるメールが届き本当に嬉しかったし浮足立っていた数日間.
初鹿野ことなによる活動の終了を明言するツイートが投稿されるまでは.

中学の途中から不登校になり普通の高校へ進学できず,おかしな機関で変な生活を送っている中,周りの目に怯えながら平日の昼間に通学路で座り込んだ中学時代を崇高なものとし,この退屈な毎日を卑下していた.
そんな頃にVTuberというものが出てきてニコニコしかみていなかった日常に別れを告げるなどしたが,やはり衝撃的なのは卯月コウの登場だろう.2018年の彼は本当に凄まじく心地よくて仕方がなかった.彼のお陰で私は一切の勉強と決別し授業中は常にイヤホンで彼のアーカイブを聞いていた.家に帰っては彼のアーカイブを複窓で流す.寝不足は思考力を奪い彼への信仰を深めてくれた.気持ちよくて幸せで,今振り返っても今後味わえることのない至高の体験だった.それでもApexを始めたりすると彼への執着は徐々に薄れていったのだから盲信というわけでもなかった.
こうして彼とは距離をおいてから約1年,私の時間を奪い続けるYouTubeは最適解でも見つけたのか初鹿野ことなを勧めてきた.
この頃になると機関の授業も減り家にいる時間が増え,延々と初鹿野ことなを観続ける日々が始まった.それでも思春期を過ぎたからか2018年ほど入れ込むことは出来ずに,しかし時間を彼女に捧げ続けていた.これはこれでまた幸せな期間だった.
機関を卒業し大学へ入り学部も終わりの今年だが結局,彼女の次の杖が見つかっていない.そもそも卯月コウに変わる存在を見繕えたことが奇跡なのだ.
彼女が消えて私はどうしたら良いのだろうか.

そういえばこんなマシュマロも送っていた.

たまに情けない先輩を詰る後輩botと重なります
ごめんなさい

情けない先輩を詰る後輩botもbotたる更新が潰え今となっては手動で不定期に呟かれている.
少し温度感が変わっているように感じるが,それもまた嫌いではない.

卯月コウは変わり,Twitterも終わり,初鹿野ことなも活動を終えたり転職をしている.
そんな中で私は何も変わっていない.相変わらず昔の私を好んでは今を否定し続けている.

真摯にインターネットへ向き合い誠実なツイートを心がける以上に世界に私を捉えさせる術は無いのだろうから正直な思いを言えば初鹿野ことな初鹿野ことなを終わらすのは私にとって満足なことであろう.

私はことなさんと違って友達が1人もいないので私の方が不幸です。

というマシュマロへの回答を聞いていて,あゝ彼女は特別であるのだと再認識させられた.それと同時に彼女が特別で無くなってから初めて彼女のことを知ることができるのだろうと感じた.
私には彼女と会う手段なんてものは無いし,何よりも人と対面することを嫌うのだから彼女を知ることなんて出来ないが,彼女が活動を続けているよりはまだ可能性はある.
初鹿野ことなでインターネットを最後にすると言った彼女であるが,その点では楽観視しても良いだろう.

こうして言葉を弄して自らの感情を鎮めようとする理性的な側面が嫌いで仕方がない.

最後に何らかの言葉を伝えたいなとダイレクトメッセージを開いたところ

あなたは認証されていないため、このユーザーにはメッセージを送信できません。詳細はこちら

との文字を目にしじわっと涙が湧き出るのを感じた.

いつもこうだ.本当にやりたかったことのすべてが手遅れだ.

伊織ユキも尊敬していた.機関とぼかしていたが出自が近いんだ.学祭でVTuberのようなことをしてから興味があったと語った彼の配信を聞きながら心底みずからが情けなかった.
綺麗なストーリーを描ける彼を,それにあまりにも適合する彼女のコンビネーションを羨んでいた.
私の人生を私は常に肯定していて特に過去にいくほど肯定が強まる.そうでもしなくては壊れてしまうのだろう.私の人生は常に羨望を嫉妬を孕んでいて,それに気づかないように幸せであるとしなくてはならない.

確かに私は一切の落第をしたことがない.それもそうで常にリスクを避けているからで,その結果が至福でないなら空虚なのではないだろうか.それでもそれには生きる指針を常に残すなんていう(社会的に)良い側面もあって,これに縋っていたわけだが,意味が無ければ指針に価値など無い.
有意味な人生を幸福な生としたヴィトゲンシュタインに頷いていた日々なんてのも動転する気の前では何のバッファーストップにも成り得ない.

これからをどう生きれば良いのだろうか,なんて書いた日には終わりなんだ.無慈悲にも日常は続く.私は死ぬことが無い.せめて正直ではありたい.
これからの生き方なんてのは決まっている.これまでの賢い私が敷いたレールに乗るだけで,多少の起伏を楽しんで生きる.これに変更はないだろう.私には勇気もないのだから.

彼女が楽しんだアイドルのライブにでも行ってみようと思う.
外出は嫌いだが来年から東京を離れてしまうのだし良い機会だ.
彼女の遺したものを少しづつでもかき集めていないと永遠に忘れるように思ってしまう.

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