日記(2020/05/30) #まじ日

人は人と出会うべきなのか / 斎藤環

https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec

臨場性のもつ暴力、の話。

早く旅行いきたいし、コンサートにもいきたいし、買い物にもいきたい。身近に見える経済的な影響、見える範囲の困難さを想像して、なんとかならんのかなと思う。
それはそれとして、自粛解禁のムードに、なんとなくビビっているところがある。この生活が元に戻るのか、せめて、在宅勤務はこのまま続くことを祈っている。単に通勤時間がダルいしだけではなく、外に出て、人に会う、人と話すストレスに気づいてしまった。好き嫌いは問題ではない(もちろん影響はある)。とにかく人に会うって大変だったことを知覚。意外とこの生活を気に入ってしまった。

それは臨場性には暴力があるから、とのこと。ここでいう暴力は必ずしも悪ではない。どちらかというと、力が働く、ということなのかなぁと思った。

論のメインではないが、関係性とコミュニケーションの話が面白かった。

関係性よりもコミュニケーションが意味を持つ領域では、臨場性を捨象するほうが効率化されるため、オンラインで完結できるだろう。

よく、リモートや在宅勤務の課題に、コミュニケーションの難化があげられるが、違っていて、コミュニケーション(情報の伝達)は逆に効率的になる。すぐに例は思い浮かぶ。大きな会議室に集まって、スクリーンに資料が投影され、前方で発表者が喋るような会議が、オンラインに移行することで、画面が共有され資料を手元で確認でき、発言もイヤホンからクリアに聴こえて、内容の理解は深まった。なるほど、確かに、コミュニケーションは効率的になっている。

では、実際はなにが困っているのか?っていうと、関係性、らしい。

そして言うまでもなく、対話はすべての関係性の礎である。
対話と関係性が実現するため、すなわち非対称性を実践するためには、そこに身体を持ち寄ること、すなわち「臨場性」が欠かせない。なぜか。人間関係の非対称性は、身体抜きには成立しないからだ。
対話と関係性が成立するには「攻×受」の非対称性が必須である。リアルな非対称性の成立には、身体を持ち寄ることがもっとも効果的である。身体的差異の効果は「臨場性」によって最大化される。よって関係の成立には臨場性が不可欠である。

弊社経営陣やマネージャー層がこぞっていう「チームワークが薄れている気がする」「一体感が失われている気がする」みたいなことは、コミュニケーションの不全ではなく、身体的差異が感じられないことによる非対称性の不成立、共振を前提とした対話の不成立による、関係性構築が難しくなったっていう話だったのか、と理解した。完全にフラットな環境になると、関係性がうまくいかないというのは興味深い。総オンラインがフラットな環境を実現してしまったというのが、今回の新しい出来事だと思うんだけど、そもそも基本的に関係性は非対称のものであるという自覚がないと、トンチンカンな方向に走り出しそう。
いまあがっている課題が、コミュニケーションの問題ではなく、関係性の問題であり、臨場性が不可欠なのであれば、「やっぱり顔を合わせないとダメ」という言説に合意せざるをえないこともわかった…これはあんまりわかりたくなかったが、しょうがない、そういうものらしい。
さいご、多様性を認めるのであれば、臨場性の暴力性を認知し、社会における臨場性の取り戻し方にも配慮を、としめられているが、それはほんとそう。まぁ、単に「仕事における一体感ってなに?」という話のような気もする。

身体性みたいなことをテーマにした現代文の問題増えそうだな、って思った。

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