日記(2021/06/18) #まじ日

たまごっちがスマートウォッチになるらしい。

たまごっちが発売された時、私は小学生だった。ご存知かと思うが、たまごっちはめっちゃめっちゃ流行っていて、街のおもちゃ屋なんかには売っておらず、知らないところで高値で取引されたりしていた。お父さんがパチンコの景品で持って帰ってきたという子を羨ましく思った。それでもしばらくすると周りの友達には行き渡ったのに、私はいつまでたってもたまごっちを買ってもらえなかった。

たまごっちだけではない。私の母親は、流行っているものをあまり買ってくれない人だった。他のものを買ってくれないわけではなかったのに「みんなが持っているから」という理由でねだったものはことごとく却下された。だから、ルーズソックスも厚底スニーカーも履いたことがなかった。学年で携帯電話を持ってない人が3人になっても、最後まで買ってもらえなかった。

加えて、たまごっちは、母親曰く「本当はもっと作れるのにわざと生産を抑えて購買意欲を煽っている」ところがお気に召さなかったらしい。嘘かほんとかわからない飢餓商法への不買運動であった。

「あのときたまごっちを買ってあげれば良かった」と突然言われたのは、大学になって帰省したときだったと思う。私の母親は過保護な放任者で、子どもをコントロールしたいタイプであったのだが、どうやらそれを多少悔いているようだった。自分の嗜好を子どもに押し付けたこと、ただでさえ一人っ子で共働きで鍵っ子で、足りない思いをさせた(と母親は思っている)子にすら厳しく接したことの象徴がたまごっちらしい。

私は戸惑った。
たしかに厳しい母親だった。しかし、周りが持っているものを買ってもらえない自分にちょっとした優越感を感じていたのも事実。それに、どうしてもたまごっち的なものが欲しかった私は、祖父に天使っちとめすっちを買ってもらい、それを「店に寄ったら孫が好きそうなものがたまたま売ってたので買ってきた」というていで家に持ってきてもらったのだった。欲しいものを手に入れるためには、祖父に一芝居打ってもらうことになんの抵抗感も抱かない子どもだった。

そもそも、教育上の反省を述べることは、現在の私への否定である。たまごっちを買ってあげなかったからなんだったというのか。たまごっちを買わない子育てによって出来上がった人間に何の不満があるというのか。

この「たまごっち買ってあげれば良かった」芸はその後もなんどか見られた。これは、本気でそう思ってるのではなく、「当時の可哀想な娘」「娘をかわいそうに思う母親」ムーブをしたいだけだと気づいてからは、ただひたすら面倒くさい。

今日も、「これ買ってあげようか」と冒頭のURLが送られてきた。まさか母親も、今本気で私がたまごっちを欲しがっているとは思っていないだろう。たまごっちを買ってもらえなかったことがトラウマになっている娘、郷愁、思い出話。狙いがミエミエな三文芝居に乗っかるのも面倒なので「たまごっちはいらないので、ジャニーズの舞台の申し込みをしてほしい」と返した。

いい歳してジャニーズに思考の大半を割いているのは、あの日母親にSMAPのコンサートに連れて行かれたことがきっかけなのだ。自分の仕事そっちのけで推しに決まった仕事に一喜一憂するようになったのも、すべて、SMAPが、ジャニーズが、世界でいちばん素晴らしいエンターテインメント集団だとすり込んだ母親のせいなのだ。母親は、たまごっちよりもそちらの功罪を顧みた方がいいと思った。

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