日記(2021/11/22) 建前を言ってほしい話 #まじ日

先日、全社会議で、社長が「コミュニケーションに大事なのは結局飲み会である」ということを言った。

私は、こう見えて(?)、会社の飲み会が、そんなに嫌いではない。そもそもお酒を飲んで話す場が好きなのだ。加えて、幸運なことに、飲み食べ脱ぎを強要されるような飲み会や、キャバクラ仕草が求められるような飲み会や、サラダのとりわけ始めひたすら気を使う飲み会に、あまり縁がなかった。
次に繋がらないタイプなので、飲み会をきっかけに仲良くなった経験はないが、会自体はそれなりに楽しんでいるし、誘われた飲み会は先約がなければ基本的に行く。なので、コミュニケーションに飲み会が寄与するものは、なんとなく想像がつく。

が、この一言で、ガン萎えしてしまってた。

そもそも、業務時間外のコミュニケーションを是とすることは、成果ではなく会社へフルコミットすることが評価につながる前時代的な考え方だなと思う。毎日飲み歩いてる夫の家の家事育児は誰がやってんだ、という話につながる。夜ご飯を子どもに食べさせなくてはいけない人は、社長の発言で、排他的な気持ちになっただろう。
社長は「強要はよくないので、行きたい人だけで行けばいい」とフォローしていた。しかし、「行けない人」へのフォローはなかった。そして、行きたくない人も、そんな一言で、「やっぱり行かなくていいんだ!」とは思えないだろう。だって、社長が言ってんだもん。

繰り返すが、私は飲み会が嫌いではない。あと、飲みにケーション至上主義!みたいな人がいることも、理解できる。私も、また飲みにいきましょう!を気軽に発動する方だ。
それでも萎えてしまったのはなんでだろうかと数日考えていた。

どうやら、私は、飲み会のことを「全社員の前で」「社長が」言ったことに、強い忌避感を覚えたようだった。正しい場所で正しいことが行われないことが、ダメだった。
喫煙所で、飲み会の席で、親しい人にこぼしていたのなら、バカにはするかもしれないし呆れるかもしれないけど、ずーんとした気持ちにはならなかった気がする。建前のセンスが合わない人が本当に無理なんだと気づいた。

思えば、コロナ禍真っ只中の昨年の3月ごろ、社長が、前日におこなわれた役員合宿での飲み会の写真を全社員に公開した時もそうだった。別の役員が「選挙には興味がない」と言い切った時もそうだった。

本心はどうでもいい。裏で遊んでても別にいい。表に出る時に(私が思う)正しい行為がなされないときが、1番軽蔑するし、萎える。絶望というと言いすぎだが、正しくない(と思う)社会を見ると、本当につらくなってしまう。

厄介なのは、正しさは一つではなく、合う/合わない の要素が大きいこと。彼らも、悪意があったのではないこと。でも、悪意がないって言ったって、ピュアもときに罪だよとか思ったりする。

まぁ、そんなこんなで、ここ最近、役員のモラルが合わんなーと思うことが増えている。
だからといって何というわけではないが、なんだかな。こんなの無視しとけばいいんだろうけどな。負けへんで。

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