人生100年時代!人生最終章! 齢70(古希)からの挑戦! 実働生活50年を振り返って!
昨年末に満70歳(古希)を迎え、今年の2月末をもって無事に生涯サラリーマン生活を卒業することができた。
これからは人生最終章の始まりだ!
・・・が、その前に少しだけ、今までの人生を振り返ってみようと思う。
生まれも育ちも岡山の片田舎で過ごし、岡山弁丸出しの田舎坊主だったが、高校を卒業して18歳で就職してから実働約50年、辛いことや楽しかったこと、嬉しかったことなど、本当に沢山のことが色々あったが,我ながらよく頑張って来れたと思う。
就職以来大阪に住んで50年になり、今では普通に大阪弁を使いこなして、すっかり関西人になりきっているが、最初のころは岡山の方言が強くて意味を理解してもらえず大阪弁に慣れるまで結構苦労した。
喋るたびに良く笑われたり、馬鹿にされて悔しい思いをしたこともあった。
《岡山弁の一例》
せんこと(そんなこと)、ぼっこう、ぼっけえ(たくさん)、おえん(ダメ)、きょうてい(怖い)・・・
ほんの一部だが、今では大阪に慣れた自分では??って思える言葉である。
でも、やはり岡山には今でも故郷としての愛着があり、年に数回は帰省し、お墓参りとかは行っている。
同郷の人がテレビやスポーツで頑張っていると、つい応援したくなります。
最近ではゴルフの渋野日向子選手には特段頑張ってほしい!(^o^)
話を戻すが、就職当時は初めて大阪に出てきて右も左もわからないまま都会での生活に苦労していたことを覚えている。
当時は親戚の近くに3畳一間の古びたアパートを借りて住んでいて、会社まで通勤に1時間くらいだったが、通勤電車はいつも超満員で、田舎の人間には通勤と生活に慣れるのが本当に苦痛だった。
住んでいたアパートがパチンコ屋の近くにあって、いつも大きな音で
「由紀さおりの夜明けのスキャット」
と
「新谷のり子のフランシーヌの場合」
などが良く流れていたので脳裏に焼き付いてしまっている。(私の暗黒時代)
そのアパートも勤め始めて半年ほどで会社の近くに寮ができたので、引っ越して暗黒時代を終了することができた。
ただ、今でも由紀さおりの歌など聞くとあの苦痛の時代を思い出してしまう(汗)
私は昭和25年(1950年)生まれなので、戦後のベビーブームに生まれた時代のいわゆる団塊世代の後半になり、最も多かったのが2~3年先輩の年代で、同年代は日本で一番人口が多い世代だった。
当時、高卒の初任給が2万2~3千円ほどで、大卒でも3万円前後だったと思うが、折しも日本が発展途上から高度成長期に移っていく真っただ中にあり、全国の高速道路や山陽新幹線の開通を始めとした交通網の発展など世の中が大きく変わっていっている時代で、毎年給料も1万円以上の単位で上がっていったと記憶している。
やがて、高度成長期からバブル時代へと入り日本中が浮かれていた時代も経験した。
ほどなくしてバブル崩壊という憂き目にも遭遇したが、会社としてはそんなに大きく影響はなかった様に思う。
就職した会社も当初は設立して3年目の小さな会社だったが、時代の最先端の技術系だった事もあり、時代と共に年商300億円ほどの規模に成長していった。
昨今の日本の経済成長や正規・非正規雇用者も含めて給与所得者の待遇などで感じるのは、我々の時代は高度成長期に働きバブルの全盛期を経験することが出来たのは本当に幸せなことであったと思う。
現在、コロナ禍であることも追い打ちを掛けてはいるが、ワクチン等で一刻も早く収束させ元の世に戻して、社会全体の底上げが必要ではないかと危惧している。
就職してから2年目(1970年)には約半年間大阪万博が開催されたので、田舎から親や友達やらを呼んで楽しんだのを覚えている。
くしくも、4年後の2025年に再び大阪万博が開催されるとのことで感慨深いものがある・・。
是非、また見学に行ってみたいと思う。
何はともあれ約50年間大きな病気もなく心身ともに健康で過ごせたことに、健康に生んでくれた両親や生活を支えてくれた家族に、今までずっとお世話になってきた友人知人達に、などなど・・・
多くの人全てに感謝あるのみだ。
人生100年時代!!
私の人生も最終章に入ったとは思うが、
人生もまだまだこれからだと本気で思っている!!
私の家系は両親とも数年前に亡くなっているが、
父が97歳、母が99歳までと結構長生きの血筋なので、
私もこれからまだ20年以上は頑張れると思っている。
現在も心身共に至って健康だが、さすがにこの歳ではもう雇ってくれる所もないだろうから、これからは自ら新たな人生を模索しながら切り開いていきたいと思っている。
人生最終章の始まり!
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