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「現役」と「引退」

この時期のサッカー界のニュースとして移籍、加入、更新とともに、「引退」がある。
つい先日引退リリースの前にある選手がメールで報告をくれた。
プロサッカー選手の大半は幼い頃から、サッカーというスポーツを競技として、時間的には15年~30年近く、またかなりの情熱をもってやってきている。そんな彼等にとって「引退」後というのはまったくもって、別の世界のものであり、なかなか想像が及ばない世界である。
「試合」という非日常的なイベントが競技生活中には定期的に訪れる。
そのようなバイオリズムで長らく時間を過ごしてきた。
「引退」してから、日常的な毎日が繰りされて初めて実感する。希有な時間だったのだと…。
「現役」ってなんて特別な時間だったのだろう…。
現役選手と話すと、こだわりや、工夫、想いや、執着が強い人ほど、「現役」という時間は何よりも優先され、高く崇められ、神格化されたものとなる。
そんな選手であれば、あるほど周りは目を離せなくなり、共感して近くに感じたり、畏敬の念を抱き遠い憧れの存在と感じたりする。

《下記の内容は2012年1月14日の自分の引退を記したブログ。長いので、時間がある時に、興味がある方だけ、読んでもらえたらと思います》

サッカー人生という言葉がある。自分は現役中その時間の尊さゆえ、「引退」というものを「死」と捉え、恐れていた時期があった。
もちろん「死」ではないのだが、その先の時間がなかなかイメージできない。
これだけ情熱を傾けられるものが他に見つかるのだろうか?
だって、15年~30年ずっとそうしてきたのだ。今年の秋葉監督が、最初のミーティングでこんな言葉を選手達に投げかけた。
「サッカーがどんな時も、生活のど真ん中にあり、心のど真ん中にあってほしい」と。
非常に心に沁みる言葉だった。
そう表現するなら、「引退」とは、どえらく大きい、ど真ん中がなくなるっていうこと。
それを想像すると自分が自分でなくなってしまうようで、なかなか怖いものなのです。
好きを仕事にできた特権と、実はそれとは引き換えに賞味期限が短い職種上のリスクあるという事に気付くにはそれなりの時間を要する。
好きがある瞬間から仕事になってしまうので、その自覚や覚悟より、明るい未来を想像する方が、その時には先にきてしまう…。

今年引退した選手達へ
「引退」ということを先にした自分の感想は「現役」はサッカー人生の「前編」で、「引退後」がサッカー人生の「後編」なのではと今は感じています。
もちろん引退後にサッカー界とは違う職種になったとしても、「〜〜人生」の中において、前編の15年〜30年の時間で醸成された大事な価値観や、スタンスがきっとあるはず。ポータブルに持ち運べる能力要素は必ず身についているので、そこにフォーカスしてほしい。

「現役」である選手達へ
「ある時期」(on the pitch)までは、無条件に、感覚に、感性に、身をまかせて、「現役」という時間に没頭し、あと先考えずに「今」を謳歌してもらいたい。
サッカーというスポーツはそんな簡単に言語化できないし、あまりにも簡単に手段としてしまっても、それはそれで、打算が見えてなんか陳腐だ。
でも、そこにかける量、質、想い、熱量が、
しっかり周りに表現できたあとならば、(周りに認めてもらえたならば)やはり本当の目的は何かということと、とことん向き合ってもらいたい。

「何のためにサッカーをするのか?」

このシンプルな問いにはっきり答えることはすごく難しい。
うまくなるため。勝つため。給料をあげるため。その答えはどれも手段だ。
自分を深掘りして、自分と向き合えば、違った内容がそのあとにきっと続いていくはず。
自分は水戸の選手には現役に没頭してもらいながら、ある局面では(off the pitch)そこを問い続けたい。

「現役」「引退」(後)を見てくださる皆様へ。
皆様の存在が彼等の前編に光をあて、輝かせ、彼等の意欲や、意志を掻き立てます。
また後編の時間においても、前編での皆様との出来事の記憶が、または、後編においての継続的な関わりが、意義や意味を見つけるきっかけを与えてくれています。

親交ある選手達が引退していくことを、ここ数年を見てきて、想っていたことを綴りました。
また何か思いついた時に不定期に投稿します。

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