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《ダルマになる》2年 林受衍

今回noteを担当させて頂きます。2年の林受衍(イムスヨン)です。今回のnoteのテーマは「私がピッチに立つとき」ということなので、私なりに書きたいと思います。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

幼い頃からサッカーが大好きでした。
部活動に入って本格的にサッカーを始めたのは、小学校6年生でした。みんなより始まりが遅かったです。そして今までサッカーを通して前十字靭帯断裂という大怪我の経験は1回ではなく、右足1回と左足2回やってきました。

そのため、私がピッチに立つ時はプレイヤーとしてピッチに立って試合した経験よりリハビリのために立った時期やサッカーを観る時期が多かったし長かったです。しかし、前十字靭帯断裂大怪我のおかげで、自分との向き合い時間が長くなり、未来のことを沢山考えるようになりました。そして、日本に留学という事も考えるようになったかもしれません。本当にサッカーを始めてから喜びよりも悲しかった記憶が多い気がします。

6/3、大学に入学してから初めて公式戦に出ることができました。高校3年生の選手権前、3回目の前十字靭帯断裂で手術してから今まで1年半の辛いリハビリ期間でした。やっと辛いリハビリを全部乗り越えて大学来てピッチの上で試合が出来るようになったのはまだ1ヶ月も経ってません。

常にサッカー中に考えていることは「頑張るところと頑張らないところを明確に決める」ことです。何でも言葉で言うのは簡単かもしれませんが、ピッチに入った瞬間、知らないうちにサッカーに夢中になってしまい全部頑張ってしまう私を見つけました。だから常にサッカー中にも意識したくて毎日グラウンド行く前に、手の甲に意識すべきことと今日の目標を書いて練習に臨んでいます。そうするとサッカー中に見ながら自分にストップをかけることが出来るようになりました。本当に怪我するのは一瞬だけど、回復は一瞬で出来ません。

私にとってサッカーは大好きな存在だけではなく、人生を変えてくれた存在でもあります。サッカーの力はすごいと思います。サッカーがあったから日本に来ることができ、サッカー選手や人間として成長することが出来ました。そして正直、私がこんなに日本語が話せるようになるとは思いませんでした。中学校の頃から日本語を少しずつ3年くらい勉強して来ても最初高校の1年生の時期全然理解できなくてボディーランゲージや翻訳機を使いながらコミュニケーションを取りました。そういう感じだった私が、時々韓国に帰省した時に韓国語より日本語の方が先に出てしまい、みんなから「ん?」という反応を沢山経験したり韓国語より日本語の方が簡単な感じがするくらいになったということを考えてみると不思議な感じがします。(笑)

こんなになれたのはサッカーの力でもありながら、今まで色んな人達から手伝ってもらったからです。その人達が居たからこそ、もう一度、日本でサッカー選手としてピッチの上に立つことが出来ました。ずっと手伝ってもらったことが多かったし、挫折と絶望の繰り返しの多事多難だったにも関わらず、両親と周辺の人々のおかげで今のイムスヨンがいると思います。サポートしてくれたり手伝ってくれた人々に感謝する気持ちを持ち、ピッチ上で良いプレーで恩を返すことができるようにサッカーはもちろん勉強も日々最善を尽くして今よりさらに発展できるよう努力していきます。

特に、小6年生から付き合ってきているリハビリ先生に感謝の気持ちを伝えたいです。3回目の前十字靭帯断裂でも関わらず、いつも厳しく手伝って下さったり常に気にしてくれました。韓国にいらっしゃるから実際会えない距離だけど、今も常に連絡を取りながら手伝ってくださっています。そして高校の時、最初色々不安があった初めて日本の生活でスムーズに適応出来るように沢山気にしてくださった日本でのパパような林先生、菊池先生、團塚先生や高校のチームメイトにも感謝の気持ちを伝えたいです。恥ずかしくて実際に言葉で表現したことがないですが、高校の時の先生達や友達のお陰で今日本で生活が続けられるようになったと言っても過言ではありません。

これからはプレイヤーとして長くピッチの上に立ってプレーをし、中学校3年生まで選ばれてた韓国代表にまた選ばれるように怪我だけ気をつけながらレベルアップします。そして韓国に帰る時には必ずいい姿で帰ります。

最後まで読んで頂きありがとうごさまいました!これからも日体大SMG横浜、日本体育大学女子サッカー部の応援をよろしくお願いします!


#私がピッチに立つとき

●プロフィール 
 林受衍 (イム スヨン)
 ・2年
 ・経歴
 → Seolbong Middle School (韓国)
 →柳ヶ浦高校
 →日本体育大学

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