見出し画像

タイムカプセルみたいなこと

いちはらさん

そちらには,蚊,いませんか。Gも,いませんか。うらやましい……。

ふと,いちはらさんが某・国立研究センターに国内留学中だった頃,お住まいのアパートにGが出てびっくりした,という内容のツイートをされていたことを思い出しまし……あれっ? ツイートじゃなくて,今はなき「ホームページ」の記事だったでしょうか。拝読して,おもしろいなあとクスッと笑った,その感覚だけは鮮明に覚えているのですが。

そういえば5月は藤の花の季節でもありますね。藤といえば亀戸天神。東京に越したからには絶対に行く……! と思い続けて,十数年。あれほど毎年強く「来年こそ!」と息巻いていたことを,今年はすっかり忘れていました。


こんなふうに,万事がぽろぽろとおぼろげになっていくのがどうにも悔しい。「これは忘れてよし」「これはダメ」って選択できるシステムだったらいいのに……というのは,たとえば日記をかいている人からすれば,秒で論破されてしまう話でしょうか。


日記とは性質が異なりますが,数年前,実家で使っていた部屋を片付けていた際に,授業中に同級生とやりとりしていた「てがみ」らしきノートの切れ端がたんまりと出てきました。

いちおう目をとおしてから捨てるか……でも恥ずかしさに耐えられるだろうか……とおそるおそる確認したのですが,なんと,なんの感情も起こりませんでした。というか,なんの話をしているのかサッパリわからない。「これ書いたの,本当にわたし?」と疑うレベルで,シナプスがどこにも繋がりません。個人的ミッシングリンクがここに。

でも

これは、記憶が自分にダメージを与え続けないように、人体が進化の末で手に入れた、「内敵に対処するための組み換えメカニズム」によるものだったりして。

なるほどそう考えますと,当時の記憶(いわゆる「黒歴史」)を思い出すたびに恥ずかしさと情けなさで胃がねじ切れたりしないよう,脳がうまいこと記憶の改変を繰り返し,時間をかけて最終的に消去して”くれた”のかもしれませんね。なんてやさしい防衛メカニズム。

***

歌によく言う、「時間がおくすり」的なあれ、がっつり傷を負ったら時が癒やしてくれるのを待つしか無いという、最大公約数的な「キュア」のかたち。


ちょうど先日,取っ組み合っていた洋書に “tincture of time(時間のチンキ)” という表現がでてきました。日本語では「日にち薬」「時ぐすり」と呼ぶそうですから,これは少なくとも英語圏と日本語圏には共通の「キュア」の感覚なのでしょうかねえ。

……そんなふうに英語圏と日本語圏に共通の表現に出会うことがちょくちょくあるのですが,そのとき「これは……全人類に共通の感覚ってことかな!」と安易に乱暴に結論しようとする自分を戒める日々です。

***

朝,テレビ番組『にほんごであそぼ』を流し見することがあります。

先日も,熱いコーヒーをふうふうとすすりながら「かるた」のコーナーをぼんやりと眺めていました。画面に展開されたフダに記された下の句はそれぞれ大きな文字で書かれ,漢字にはすべて「ひらがな」でルビがふられています。

ふんふん。子どもむけだものね,そりゃそうだ……と弛緩した寝起きの脳に,ナレーターが読み上げた上の句が滑り込んできます。

「ときよ とまれ」

んん? 突然のファウスト? 子ども向け番組で? わたしの聞き間違いかな……と精神の焦点を画面にあわせてみると,うわー,ありました。下の句。

「お前は 美しい」

この番組,対象年齢いくつ……? と軽く混乱しました。でも同時に「相手のレベルを考え抜いたコンテンツづくり」の,一つの理想形を目の当たりにしたような衝撃を覚えもしたのです。

そんなある朝の衝撃も,この往復書簡に残しておけば消えないだろうという謎の確信をもって,今回のお手紙を書いています。

(2020.5.28 西野→市原)