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つかみどころのないまえがきのようなもの

市原先生:

「3分前は過去」

20年ちかく前に流行った言葉で,当時わたしは大学院生だった。カリスマ的存在であった女優が自身のモットーとして掲げたこのフレーズは,彼女のポジティブなキャラクターともあいまって,多くの女性を励ましていたと記憶している。当然わたしも影響を受け,何かに失敗したり,失敗したことを思い出したりしそうになると,この言葉を引き寄せて,縋った。おかげで悔しさや恥ずかしさに振り回されすぎることなく日々をやり過ごすことはできたが,果たしてその使い方が正しかったのか,あまり自信はない。

20年ちかくが過ぎた今,かつてのような大きな失敗をする機会は減ったし,失敗から得られるものの大切さもわかっている。それでも,みっともない自分を過去にする癖のようなものが,わたしのなかにある。

過去になった「わたし」は,今の「わたし」から切り離されたそばからぼろぼろと崩れ落ちて,かけらはさらさらと砂つぶになっていく。だからわたしの後ろには,過去の砂でできた砂漠が広がっている。

普段はそんなことを意識もせずに過ごしているが,砂は不意に「きゅっ」とひとつにまとまって,目の前に立ち現れることがある。5,6年前にわたしから切り離した過去は,1冊の本をきっかけに,そんなふうにして現れた。真正面から向き合ってみたものの,やっぱり恥ずかしくてみっともなくてうろたえた。けれどそれは一瞬のことで,きっかけとなった本--それはとある芸人とライターが交わした往復書簡をまとめたものだった--が放つ美しさに心を奪われた。こんなふうに言葉を重ねたいと思ってしまった。迂闊にも。

2度目の往復書簡企画となる。何か準備をしていたわけではない。「往復書簡,やりましょう」と話して以来,打ち合わせらしい打ち合わせもしていないし,目的やテーマを明示も共有もしていない。極めて茫漠とした状況で企画がはじまったのは前回と同じで,気負いがないと言えば嘘になるし,砂のかたまりは今も変わらずわたしの前にある。

それでも見切り発車とは感じていない自分を不思議な思いで眺めている。

蜃気楼のようにゆらぐ何かがみえるような,そんな往復書簡が読めたらいいなと思っています。

どうぞよろしくお願いします。


(2019.7.3 西野→市原)