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「闘」と「者」が思い出せない

いちはらさん

お,市原さんもホラー,ご覧にならないですか。でもあれですね,わたしのように「怖いのが苦手」というより,ジャンルとして,そこにあまり興味がない,という感じでしょうか。

わたしはといえば,小さい頃はお祭りといえばお化け屋敷!と出かけたり,「あなたの知らない世界」なんかもキャーキャーいいながら見ていたように記憶しているのですが,いつからか心臓に悪い作品はことごとく避けるようになってしまいました(サイキックバトル系は今も楽しくみられるのですけどもねえ)。

そういえば,「泣ける!」と評判になった作品なども,触れたあとずぅっと引きずってしまうので,なるべく見ないようにしています。

そうなってくると,もはや「完全に予定調和」な作品しか見られなくなるな……? と,なんとなく開いたNetflixの画面に表示される膨大なコンテンツを前に,どれを選んだらよいか途方に暮れる自分の守備範囲の狭さにガッカリしたりしています。

最終的にはマカロニウェスタンとか水戸黄門様に行き着くのかもしれません。それはそれで,毎日ハッピーなことでしょうか。

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何か自分の想像を超えてはいるんだけど、実際には自分の中にも理解できる可能性が眠っているような、「何言ってるかわからないと言いたいのにわかってしまう感覚」を、ぼくは脱皮の違和感に重ね合わせています。

「わからない」の薄皮一枚下で,もぞもぞ蠢く「わかりそう」の感覚,ちょっとわかります。薄ぼんやりとは見えている,近づいて目をジッと凝らせば見えてきそうな,でもどうやってもはっきりとは見えないし,触れられない,薄くて半透明な壁の外に感じる,歯痒さと期待。

では「わかった!」の瞬間はどうかといえば,脳に稲妻が走るような感覚のときもあれば,薄い薄い布が一枚,目の前からヒラっと落ちたように思うときもあります( そんなときは "おぉ...いままさに… reveal...!!" とひとり興奮したりもします)。

 

そういえば源氏物語に「着物を脱いで(言い寄ってくる光源氏から)逃げた」ことから「空蝉」と名付けられた登場人物がいましたっけ。

“その古典は 危険だ” と私の第六感が告げているので,これ以上の言及は避けますけども。

苦しみ,悩みながら,最後は「上着をスルリと脱ぎ捨てるように」何事かへの執着を捨てた人を何度か見たことがありますが,そのときの彼ら・彼女らの様子は,横で傍観していただけのわたしにすら,少し感動的に映って。あれはやはり「脱皮」なのかもしれないなあと,市原さんからの手紙を読んで,思い出していました。

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「考えすぎる人」は、子孫は残さないが思想を残したのかもしれない。今では幽霊とかオバケとか心霊現象とか妖怪とか超常現象などさまざまな名前を付けられている。

「理解し難い,とある現象」に名前をつけ,「何某とかいう,これこれこのようなモノ」として一つの定型を与え,理解可能な形にし,たとえば村人同士で「何某という,オソロシイもの」の怖がり方を共有して,腹に収める……。「考えすぎる人」は,このように機能した人でもあっただろうか……というようなことを,ふわふわと考えていました。

そうやって考えているときというのは「行き遭って」しまうもので,先日読んでいた本の中に「妖怪学」を確立した人物が出てきました。

その人は,「仏教者」であり「心理学者」であったとのこと。

うわー,いかにも「考えすぎる人」の系譜っぽくないですか……!


さて件の本,メインテーマは何かと申しますと,これがまた「仏教」だったりします。

仏教といえば『孔雀王』の「九字切り」程度の(サイキックバトル的な)前情報しかないわたしに,この本の内容がどこまで「わかる」のか,それとも「わかりそうでわからない」で終わるのか。ちょっと未知数ながら,今のところ大変おもしろく拝読しています。

読み終わりましたら,ぜひ紹介させていただきますね。

(2020.10.2 西野→市原)