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認識のディスロケーション

いちはらさん:

「人間,比較からは逃れられないんじゃないかな」と言っていただいて,なんだかちょっと安心しました。

そういえば以前,本に載せるデータの見せ方について著者(医師)が「異常値単体での提示というのはあってはならない。正常値とあわせて出すのが絶対のルール」という旨のことを言っておられました。正常と異常(あるいは事物AとB)がペアになって初めて意味をなす世界には,そこに特有の美しさがありますね。

『芸術・無意識・脳』というタイトルで思い出したのですが,現代美術といわれる作品群は,照らし合わせるという作業を「させてくれない場」として機能することがあるように思います。「絵画」ときいてパッと想起される「絵」からは,見るべき場所や描かれたものの意味を比較的すんなりと受け取ることができますが,現代美術に類する絵画は,わたしの手持ちの尺度がまったく役に立たない。はかれない。あまりにも「意味がとれない」。そういった作品と美術館で出会うたび,わたしは落ち着かず,足場が揺れるような得体のしれない不安を覚えます。

現代美術作品に対し素直に感動できる美的感覚を持ち合わせていないのは残念なことでした。でも,とある本で,某・現代美術家の作品について記した章に,目を凝らしてもうまく見えない事物に相対した状況では「通常の認識を脱臼させるような」気配が漂う,とあり,深く頷きました。なるほどわたしの不安は自分がもっている認識が激しく揺さぶられたために生じたものだったのか……作品は理解できないけど,わたしに生じる感覚そのものは間違っていないのかも。この本を読んで,そう考えられるようになりました。

……と同時に,ちょっと笑ってしまいました。心が複雑骨折した,という言い回しはSNSでみたことがありますけど,認識を脱臼,というのはまだ誰も使っていないのじゃないかしら。

現代美術館に足繁く通う知人がいます。なんど行っても楽しいよという彼女にはわたしにみえない世界がみえているのだろうなと思っていたのですが,もしかすると「はかれないもの」と対峙したときに立ち上がってくる「認識が脱臼しそうな気配」を楽しんでいるのかもしれません。こんど会ったらきいてみようと思います。

追伸:「とある本」=『文学を<凝視する>』(阿部公彦 著,岩波書店)です。あの本は読むたび脳にぷすぷす針を刺されるような感覚があります。

(2019.7.29 西野→市原)