本棚みられるの恥ずかしい派

いちはらさん:

ご紹介した本,お楽しみいただけたようでとても嬉しいです!

よかった よかっt

さすがマドマド。

その名で 呼ぶな。

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「神経核」の件。

でも所詮は「中にある灰白質」でしかないんだ。入り組んでいるから島っぽく見えているけれど。

うわぁー! 白質の中の灰白質。そ,そうでした……「“△△”という機能を司る”〇〇核”」と1対1対応でざっくり安易に紐づけているから,それぞれの神経核は,大切な機能を担う,”とってもスペシャル” な存在に違いない! だからか,見た目も違うよね!!……と,なんとなく思い込んでいたようです。

だめですねえ。カンデルを読んで出直さねばなりません。あぁ,神経解剖学のアトラスも見直さねば……

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その人の個性とか、唯一無二の存在理由とか、生きている意味みたいなものも、あるいは、周囲によって動的に規定されるものなのだろうか。

「個性」といえば。

いまでは語尾に”w(草)”を生やされる「自分探し」という言葉ですが,これが流行った時代がありましたね。

流行りにのったのか,あるいは年齢的にもそういう時期だったのか,「自分はいったいどういう人間なのか」を言葉にしようとして,ドツボにはまった時期がありました。

きっと揺るぎない,これぞというものがあるはずだと,頭のなかでぐるぐると考え,追い求めましたが,掘り下げようとすればするほど,そこには「何もない」という虚無感が強まっていきます。

そんなバカな,自分のことだぞ,言葉にできる何かがあるはずだ。

そうしてしばらくもがきましたが,それらしい欠片すら手にできず。疲れたのか,旬が去ったのか,いつしか「まぁ……そんなもんかもね」と諦めて,向き合わなくなりました。


かつての流行りの「反動」なのか,こういった分野の研究に世界が少し追いついたのか,ここ数年は,一般書やウェブで目にする記事には「本当の自分」などというのものは思い込みであり,幻想である,「自分」とは「他者」とのなかに立ち上がってくる,極めて不安定な状態なのだ……という主旨のことが書かれていることが多いように思います(実はわたしがそういう文章を求めているだけなのかもしれないですけど)。

そういえば『読んでいない本について堂々と語る方法』で,バイヤール氏は 「われわれ自身がそこに蓄積されてきた書物の総体なのである」。つまり,読んできた本はアイデンティティーの一部を構成するのだ,と書いてましたね。だからこそ,見知った本に対して他者から中傷的な発言を受けると,自分自身が攻撃されたように傷つくのだ,とも。

この文章を読んだあと,ふと自宅の本棚に目をやると--そこにはもちろん未読あるいは読みかけの本も並んでいるわけですが--「あぁ,これは確かに ”わたし” だわ」と,わたしのなかで燻っていた何かが,ストンと腑に落ちました。 

 自分がどんな人間なのかを知ろうとして,ひとり脳の中を覗き込んだときより,自分が読んできた本に,ずっと確かな「自分らしさ」を感じる。これはとても不思議な感覚でした。

あぁ,本棚はその持ち主の”鋳型”なのかもなあ。なんだか頼もしいなあ。などと,最近は思う次第です。

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個人的にあまり好きではないのですが「人生のステージによって,つきあう人間は変わるし,変えるべきだ」というフレーズに,何度か直面したことがあります(きっと「本」にも似たようなことが言えるのかもしれませんね)。

他者(環境を含む)との関係性が変わるということ,変わってしまうということについて,近頃ちょっと思うところがあるのですが,長くなってしまうのでまたお便りしますね。


追伸:今年8月のイベント,SNS医療のカタチ「やさしい医療の世界」 たいへん楽しみです。心より応援しています。頑張ってください

(2020.4.9 西野→市原)